こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
ここ最近では、
- 同僚
- 友人
- 家族
と話す機会が、とにかく多くなってきました。
人と会い、話すことを大切にしてきた僕ですが、いよいよ自分が探していた「幸せ」を見つけられたのかもしれません。
今日は、人と出会い話すことで感じたことを書いていきます。
変わっていく人との会い方
コロナ禍に一人の時間を過ごしまくっていた僕は、
と考えては、旅に出ていました。
その中で僕が見つけた「幸せ」は、たくさんありました。
- 匂い
- 大自然
- 美術館
- サウナ
- コーヒー
など、「生きている」をダイレクトに実感できることほど、僕は幸せを感じていました。
と思い、ひとりの時間が至高の時間であると悟ったのでした。
一方で、だんだんとコロナ禍が落ち着きを取り戻してきますと、以前のように人と会う機会が戻ってきました。
「人と会うこと」で、
- 自分の思考の整理
- 相手の知識を共有
など、ひとりでは得ることのできなかった「刺激」が舞い込んできました。
と、感じるようになりました。
新しい人と会うことは、
- 刺激的でもあり
- ストレスにもなる
と思っています。
久しぶりに人と会うことで、僕はどこかまた風呂敷を広げようとしてしまっていました。
この感覚は大切なことですが、それが目的になっている時というのは、得てして空回りするものです。
また少しずつ落ち着いてきますと、「人と深く会う時間」が増えるようになってきました。
「人との会い方」に正解なんてないのですが、僕はそうやって試行錯誤を繰り返すことで、
- 自分の心地良い距離感
- お互いにとってかけがえのない時間
を過ごせるようになったのでした。
幸せとは人と会うこと
幸せを求めて、ここ1〜2年は模索を続けていましたが、
- 一人の時間も
- 友人や家族との時間も
幸せだということがわかりました。
ここでも大切になってくることは「バランス」ですね。
人と多く会い過ぎまてしまいますと、どうしても「自分で」インプットしたりアウトプットしたりする時間がなくなってしまいます。
人との相互作用でもらえる知識や情報もありますが。
すると再び人と会うときに、
「自分自身がアップデートされていない状態」
となってしまうのです。
と、困ってしまったものでした。
一方で、「ひとりの時間」が長くなり過ぎていた「以前の僕」は、アウトプットの場がこのブログくらいしかなく、
- 人と意見を共有したり
- フィードバックをもらったり
する機会がなくなってしまいました。
刺激も少なくなり、どこか行き詰まった(息詰まった)状態となってしまいました。
そこで僕は、あの疑問を思い出しました。
と。
一人で人生を静かに終えるのもまた、1つの正解です。
ただ、人と出会う中で学ぶことや感動することが多かった、そんな学生時代を過ごしてきた僕は、
と、重い腰を上げたのでした。
空回りしたこともありましたし、イヤな気持ちになったり、面倒になったりしたこともありました。
それでも人と出会い、自分の気持ちや想いを伝えることで、「生きている実感」を得ることができるようになりました。
単なる「承認欲求」ではなく、そこに「気持ちのやりとり」があり、
- 心が温かくなるような
- 何か足りない部分が満たされるような
そんな気持ちになったのです。
バランスをとるということは、
「人との出会いも必要不可欠だ」
ということを意味しています。
おかげさまで、僕は今、毎日が充実しています。
何気ない毎日を共有する意味
僕が死に至るまでは、当然のことですが「日常」が続いていきます。
それを一人で過ごそうと思いますと、なかなか苦しいものです。
そこで大切になってくるのが、やはり「人」なのです。
自分の経験や知識を、共有できる対象がいること。
これはかけがえのないことだと、肝に銘じておく必要があります。
人は「一人では生きられない生き物」だからです。
ただそこに、「承認欲求」と大きく違う点があります。
「承認欲求」は一方的な「TAKE」であり、悪い言い方をすれば「クレクレ星人」なのです。
承認を求めているだけの人は、いつまで経っても本当の意味で満たされることはないでしょう。
相手だって、表面上だけ「いいね!」をしたり、ほめたりすればいいだけだからです。簡単な話ですしね。
抽象的な話になりますが、その「自己中心性を持たないで人と関わること」がとても健全で、生産的な出会いだと思っています。
決してそんなことはありません。
まずは、みなさん自身の存在を受け止めてくれること。
そんな人と出会い、話をすることのほうが、よっぽど深い部分での繋がりを持つことができますから、そこが第一優先でしょうかね。
TAKEの気質が強くなければ、どちらかが一方的になることもないですし、心からお互いを尊重することができるからです。
その関係性を持てた時こそ、僕は幸せを感じるのです。
だって、そこにいていいのですから。
「日常」とは「いる」ことです。
そこに存在することを認めてもらえれば、そんなに嬉しいことはありません。
これは1人では成し得なかったことです。
ひとりだと、そこにいていいのかどうか、判断できないからですね。
だから、そうやって存在を認めてくれる仲間を見つけること。
そのためには自分も「聞いて聞いて!」のままではダメです。
幸せを掴むためには道のりが長いものですが、それぞれのできるGIVEをもとにして、多くの人と関わり、人生を共有していきましょう。
おわりに
今でも明確な答えはないですが、少しずつその答えに近付いていると思います。
もちろん、死ぬまで答えなんてわかりはしないのでしょうけれど、人と会えば会うほど、その時間の貴重さと儚(はかな)さがわかります。
だから人に会いにいき、時間を共有しましょう。
心の深い部分で繋がって、幸せを感じてみましょうね。
それではまた!
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