こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
朝活をしていますと、いろんな人と話をしますし、
- ためになる話を聞くこともあれば
- めちゃくちゃくだらない話で笑うことも
あります笑。
僕は「幸せ」を求めて生きてきたわけですが、最近はこの「何気ない毎日」が尊く思えるようになりました。
昔から人に恵まれて生きてきたものですが、やはり改めて「人との繋がり」に感謝する毎日です。
今日は「笑い合える仲間」について書いていきます。
大前提として真面目に生きること
これは定義が難しいのですが、僕個人的な意見を言わせていただきますと、
と思っています。
いえ、もちろんいい意味でバカな友人たちもいますし、これではまるで「僕はバカではない」と言っているみたいでイヤなのですが笑、大前提として「真面目な話ができる」ということは、必要最低限のことだと思っています。
いや、だって「大人」でしょう?笑。
いつまで経っても、
と、真面目な話ができない人とは、ちょっと一緒にはやっていけません。
バカなこと「だけ」をやって笑えるのは、
- 未熟で
- 無知だった
若い頃だけでいいと思っていますし、大人になってその「使い分け(=状況に合わせること)」ができないことは、
と思ってしまうのです。
後述しますが、やはり、
「真剣に『生』と向き合っている」
からこそ、その笑いに “意味” が生まれてきます。
僕が真面目だから「自分を正当化したくて」言うのではなくて、どんな人でも頑張っている人はどこかに「真面目さ」があります。
- どうやって人生と向き合っていて
- ちゃんと自分の意志を伝えることができているか
とは、一見難しいことのようですし「そんなことしなくていいじゃない」と思われがちですが、僕にとっては、人と付き合っていく際にとても大切な要素です。
別に「薄っぺらい人生はダメだ」なんて言っていません。
僕自身だって、別に何か大きなことを成し遂げたわけでもない、ごく普通の人間ですからね。
大切なのは、そこに「真剣さ/真面目さ」が少しでもあること。
適当に生きようといつまでも意地を張っていますと、いつまでも人生は変わらないでしょう。
そんな「現状維持」の人は、成長することがありませんからね。
少しでも前を向いていける人と、いつまでも一緒に笑い合いたいのです。
バカみたいに笑うことは違う?
先ほどの「定義」からすれば、
という意見が飛んできそうですが、もちろんそんなことを言っているわけではありません。
大切なのは「使い分け」ですし、根っこの部分に真面目さがあれば、お互いなんとなく気づきますからね。
その上で笑い合うことは、「お互いを認めた上で笑い合っていること」を意味します。
ただ、その根っこの部分に「真面目さ」が少しでもないと、本当の意味での「バカ笑い」になってしまいます。
以前問題になった、バカッターのような低俗な笑いです。
僕も気をつけなければなりませんが、「いじる」にも限度があって、度を超えてしまいますと、
- バカにしている
- 不愉快にさせている
状態となってしまい、本人だけでなく周りの人まで巻き込んでしまい、
と思われ、人は離れていってしまいます。
特に朝活をやっている身からしますと、僕は「ホスト」ですので、
- いじり
- 下ネタ
などを好んで笑いを取ろうとし続けてしまいますと、「真面目」な部分よりもその「低俗さ」のほうに目がいってしまい、結果的に「最低な人」というレッテルを貼られることでしょう。
学校の授業も同じでした。
下ネタが嫌いな男子生徒だっていましたし、生徒がちょっとした「いじり」として友人に発した言動にも、「そうだよなぁー!」と軽く請け合ってはいけない時が何度もありました。
アンテナを張っておくことも大事ですし、やはり普段からそういう言動や空気感に乗らないことです。
そういった意味でも、「真面目さ」は信頼してもらえるいい手段だと思います。
という短絡的で表面的な意見を言いたいのではなくて、そこにその人のパーソナリティが伺えるわけですから、「笑う」ことについても気をつけたほうがいいということです。
「慎重になる」というよりも、どういう人柄かが笑いからうかがえてしまうからこそ、「なにでどう笑うか」については今一度考えるべきですね。
一所懸命生きるから笑い合える
「真面目さ」にも繋がってきますが、やはりお互いに一所懸命生きているからこそ、笑いとは質の高いものになってくるのだと思います。
と言われそうですが、そんなことは言い切れません笑。
僕はお笑い芸人でもありませんし、しゃべりが特別上手いわけでもありません。
でも、僕の人生の裏側の「ひたむきさ/一所懸命さ」が伝わっているからこそ、お互い心の底から笑えているのだと思っています。
と言われそうですが、僕個人としてはそう思っています。
僕も朝活や授業で笑うことが多いですが、僕の「英語の指導力」を知っているからこそ、そもそも生徒さんは授業をとってくれていて、その中で自然発生的に生まれる「笑い」には、ベースの「尊敬」があります。
だからこそ、「笑い」に深みも生まれてきます。
僕が関係を保っている人たちは、どこかお互いをリスペクトしているところがありますしね。
だから、
と思うわけです。
そう思うのであれば、正直小学生が「うんち」で笑ってしまうような、そんな風に笑える友人を見つけて笑い合っていればいいでしょう。
極端で厳しい例えかもしれませんが、突き詰めて言えばそういうことです。
決してバカにしているわけではなく、僕は「そういう笑いを続ける気はない」という、ただそれだけのこと。
もっと深い意味での「楽しい笑い」は、その人に対するリスペクトから生まれるものです。
尊敬できる人(=上とか下とかではなくて頑張っている人)と一緒にいたいですし、そんな人たちと笑い合っていたい。
だから、
- 笑い
- 生き方
の間にも、しっかりと繋がりがあるのだと思っています。
おわりに
僕は毎日、笑うようにしています。
でも毎日のひたむきさが、その「笑い」を生み出してくれているのだと、そう信じてもいます。
それだけ一緒にいる人たちが、
- 尊敬できていて
- 本気で笑い合える
そんな仲間達なのだと感じています。
今日もみなさんは笑えましたか。
そんな仲間たちと一緒にいられましたか。
今一度「笑い」について考えてみてくださいね。
それではまた!
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