批判されることを恐れずに発信する【議論するには柔らかい姿勢を】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

僕はもう30代も後半戦に突入していますが、若かりし頃に比べればだいぶ丸くなったものです。

いまだに発信を続けていますが、やはり発信をしていますとたまに「突っかかってくる人」もいます。(ほぼいませんが)

いやぁ、そんなことのない生活のほうがいいなぁ

と思うのが普通でしょうし、僕も、

そんなこと言われるくらいなら辞めてやる!

と思ったこともありま…したかね?

すみません、なかったです笑。

発信をしているといろいろと「合わない人」が石を投げてくるもの。

それは僕だけに起こっていることではありません。

今日はまた「発信すること/批判されること」などについて書いていきます。

批判覚悟で発信をしている。批判をするなら代替案を。自分で発信していない人はフェアではない。議論をするなら柔らかい物腰でいこう。

昔から言いたがり

僕が若かった頃は、もっともっとラディカル(=革新的)で、いろんな人に食ってかかっていたものでした笑。

今考えれば、

あの時の自分とは絶対に議論したくない笑

と思っています。

とにかく論理的(ロジカル)な思考が好きだった僕は、徹底的に相手を「理詰め」していましたからね。

よく周りに敵を作ったものでしたが、それでも「はっきりと言う」という意味では、感情的になりつつも、

あれはあれでなんか熱かったなぁ

とも思っています。

今は「言い合い」みたいなものがあまり好きではないので(単に時間が奪われるため)、レスバトル(=コメント欄でリプライをし合うもの)もしません。

一方で、生産的な話し合いはとても好きですし、

自分がいかに知識が足りていなかったか

ということも再確認できますので、そういう意味でのやり取りは楽しいです。

以前はあまりにも正義感が強すぎて、鬱陶しいことに対しては声を上げていました。

柔らかくなってしまった僕は、いつからかキバが抜かれてしまっていたのかもしれません。

しかし、

日本がグローバリズムと戦う

という明確な目標を立てることができてからは、(論争はしませんが)世界にはびこる「理不尽なこと」に対して、

  1. 勉強して
  2. 論理的に話し合う

ということができるように、日々勉強しています。

そう考えますと、小中学生だった25年くらい前から、僕はスタンスが変わっていないんですよね。

  • 保守だったり
  • リベラルだったり

という意味では思想は変わったのかもしれませんが、性格はそのままです笑。

僕は昔から論理的に話し合うことが好きだった。当時は感情的になっていたけれど、そこで自分の足りなさを理解するのも好きだった。

批判するなら自分で意見すべき

相手を批判する人とは一定数いますが、僕も少なからず「批判したい側」でした。

一方でこの感覚とは、実はブーメランとして意見が返ってくることも忘れてはなりません。

僕は普段から発信しているのでどうってことはないですが、たまに意見してくださる人もいます。

それはありがたいことですし、議論ができて楽しいです。

僕が若かりし頃に考えていたことは、

批判するなら代替案を出せるように。ただ批判に終始しなように

ということでした。

これが「批判する側」のリスクでもあるのだと思っています。

今思い返しても、僕は意外にも常に「話し合い」をするようにはしていました。

  • 生徒に対しても
  • 友人に対しても
  • 教員に対しても

ただ理不尽に、「反対すること」ばかりをしていたわけではありませんでした。

相手が感情的になって話が終わってしまうこともありましたが、それはそれで、

相手が話し合いを放棄した

と捉えていましたね。

正論がいつも正義だとは言いませんが、やはり “ちゃんと話せること” が大前提にあるべきです。

僕は、自分の意見を述べることはあっても、誰かを批判をすることはあまりありません。(今の政府くらい?笑)

なぜなら、批判するなら「それ相応の覚悟」が必要だからです。

  • ちゃんと根拠はあるのか?
  • 多角的にものごとを見られているか?

といった準備ができていないもの、自分の意見に合わないものに対して脊髄反射的に反応してはいけません。

「自分の軸」が定まっているのであればいいんですけどね。

そうやって批判するくらいなら、僕のように自分で発信したらいいのです。

それができないのであれば、ちょっと批判するにはアンフェアすぎます。

「意見をするな」とは言いませんが、発信している側からすれば、

ちょっとそれ、なんかずるくない?笑

と思うんですよね笑。

半分冗談ですが、

自分はこういう意見がある!

と思うのであれば、思いっきり発信すればいいと思っています。

批判する時には覚悟が必要だ。意見が固まってもいないのに、他人を批判することはできない。むしろ言いたいことがあるなら自分で発信したらいい。

それでも柔らかく

ただ、先述した通り、

言い負かしたから勝ち

とか、

正論で理詰めしたら勝ち

というわけではありません。

以前の僕は、

とにかく自分が正しいのだから、いっぱい根拠を並べまくってボコボコにしてやる!

と思っていました。(マジでやばいやつ笑)

しかし本来、議論や意見のぶつけ合いとは、生産的でなければなりません。

  1. 自分の意見をただ通す時間でもなければ
  2. 相手を言い負かして、わからせる時間でもない

ということ。

え?じゃあ議論なんてやらなくてもいいのでは?

そうはなりません。

会社や学校で話し合いをしますよね。

あれは「組織をより良い方向へ」と導くために、

あぁでもないこうでもない

と議論をする時間です。

人間は誰だって(僕だって)パーフェクトではありませんから、議論をすることで、

なるほど。そんな考え方もあるなぁ

と、自分では考えつかなかった観点を得ることができます。

僕が毎朝やっている「朝活」でも、いろんな意見をもらうことができます。

僕が偉そうに話すこともありますが(おい笑)、別に賛同者を集めて頷いてもらっているわけでもありません。(なんじゃそりゃ笑)

いろんな観点があるからこその議論でありますから、気に食わない人を排除するつもりはありません。

ただ、

  • 言い方やマナーが悪い
  • 自分の意見を無理やり通そうとする

といった、どうしても相容れない人には退席してもらっていますけどね。(今までその事例はほぼありませんが)

そもそも「議論できる人」とは、常に余白があります。

いろんな意見があるもんね

という前提に立てているということですね。

だから自分の周りに「イエスマン」を置いてはいけませんし、かといってただただ「自分の正義」を押し付けて批判をしてくる人と関わっていてもいけません。

議論をしよう

と言った際に、取り合える人なのかどうかということ。

そこにはある程度の、

  • 物腰の柔らかさ
  • 相手を認める姿勢

が、お互いに必要ですよね。

議論とは人間ができる、「武器や暴力に頼らない戦い」とも言えますし、ともすれば「協力」とも言えます。

それがわからないまま、

うるせー!お前キライ!

と言って逃げてしまったら、それはもう人間の大切な部分を失ってしまっています。

そうならないよう、議論ができるように、常に冷静さを持っておきましょう。

議論をするときに白熱したり、自分の正しいと思うことをぶつけ合うとヒートアップしてしまう。しかし、いつでも優しさや柔らかさを忘れないことだ。

おわりに

僕は自分の信念みたいなものはあっても、他の人がどういう信念を持っていようとあまり気になりません。

そういう考え方もあるよねー

と思う程度ですかね。

無理に押し付けることは好きじゃないんです。

でも議論するなら、それに基づく根拠や論理展開が必要なのは間違いないこと。

僕ももっと勉強して、しっかりとした議論ができる人になっていこうと思います。

それではまた!

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