こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
夏の甲子園はあまり興味のない僕ですが、どうやら大きく騒がれていることがありました。
それが「いじめ問題」です。
非常にセンシティブな内容ではありますが、どうやらある高校球児たちがいじめ(暴力)を犯してしまい、2回戦になってようやく出場を辞退したという話でした。
高校教師をやっていた身からしますと、非常に苦しい感情が胸を締め付けましたね。
今日はいじめ問題からマスメディアの動きまで、徒然(つれづれ)なるままに書いていきます。
いじめはなくならない?
僕は高校の教師をしていましたから、

という、ちょっとした「諦(あきら)め」みたいなものがありました。
もちろん、教員としていじめ問題には真摯に立ち向かい、事情聴取をしたり指導をしたりしては、対処してきました。
しかし「大人の世界でもいじめがある」のをみなさんも見かけるように、この社会的動物である人間の社会では、いじめとはなくならないものです。
と、僕に意見する人はいるでしょうか。
おそらくほとんどの方々が、
と納得してくれるかと思います。
どんな環境であれ、人のことを見下したり、勘違いしたりしてしまう人は出てきてしまうもの。
- 育った環境
- 受けた教育
- 聞いてきた考え方
など、多種多様な「影響」によって、その人の考え方とは決まるからです。
誰だって少なからず、人と比べたり誰かを嫌いになったり、あるいは子どもの頃に暴力を振るったり振るわれたりした経験があるでしょう。
程度の差はあれど、僕も小さい頃にはよくいじめられていたものでした。
別に「いじめに立ち向かい、強くなること」を美化したいわけではありませんが、誰よりも筋トレをして結果的に誰も近寄らなくなっていました。(おい笑)
自分を強くすることは大事なことです。
もちろん、「いじめ」とは弱い者を狙うからこそ成立するものであり、弱い人間の性(さが)だとは思っています。
彼らいじめていた高校生を擁護する気はサラサラありませんが、この前提に立って話をするかどうかでは、だいぶ捉え方が変わってくるのです。
学校側の責任
生徒たちがすでに暴行を加えていたことは発覚していたのにも関わらず、出場させた、
- 高校
- 高野連
たちがまず、責任を取らなければなりません。
もちろん、この高校球児たちの行動も許されるものではありませんが、そうした環境を作った学校や大人、そしてGOサインを出している高野連には、多分に問題があります。
いつからか甲子園が神格化されてしまっており、
と言いながらも、それによって「利益を得ている人たち」はある一定数いることは間違いありませんでした。(いないわけがない)
僕は高校球児たちの熱さは否定したくないのですが、そうした “野球部” 界隈の独特の「気持ち悪さ」は、教員ながら感じていました。
何かこう、偉そうなんですよね。
今となっては野球の人気は低迷していますが、昔は野球というスポーツそれだけでも脚光を浴びていたものでした。
だからなのか、鼻高々に部活動指導をしている人が多い印象を受けましたね。(僕の主観です)
何度も言いますが、僕は野球をしている人たちも好きですし、大谷翔平選手やイチロー選手は素晴らしい選手だと思っています。
むしろ、もっと組織的な部分と言いますか、全体的に「濁(にご)り」があるように感じています。
当の本人たちは好きでやっているからいいのでしょうが、側(はた)から見ていますと、
と思っている人は、どうやら結構いるようです。(せいじ調べ笑)
これは野球に限ったことでなく、どんなスポーツにおいても言えることですから、野球だけを槍玉に上げてしまうのはよろしくありません。
とはいえいずれにせよ、これは大人たちの問題でもあるということを、肝に銘じておかなければならないのです。
- お金が欲しいから
- ポジションが欲しいから
大会を行なっている、あるいは大会に出場しているのではないでしょうか。
「名将」だのと持ち上げられ、気持ちよくなっているのではないでしょうか。
高校のPRとして甲子園に出ることが最優先事項になってしまい、子どもたちへの本当の教育を見失っていませんか。
僕はここに問題があると思っています。
大人たち、学校サイドが見ているのは、常に「自分の立ち位置」だけです。
誰も子どもたちのことを考えていないように見受けられました。
生徒たちを庇(かば)って、自分たちがまず「間違っていたこと」を認め伝えること。
その上で、彼らにも反省を促し、
と指導することです。

と言いたいわけではありませんが、その前に先生や大人たちがやるべきことがあると思うのです。
報道機関の罪
そして極め付けは、マスメディアの物議を醸すコメントでした。
SNSの何気ない投稿が
高校球児の夏を終わらせてしまうということも
投稿する前に考えてほしいと思います
これはテレビ局のアナウンサーが、番組の締めとして残したコメントでした。
もちろん、受け取り方によっては、
という声も上がっていたかと思います。(これには僕も同意です)
しかし、この文言を受け取った大多数からすれば、
と思うはずです。
そもそもSNSで叩かれるよりも前に、学校サイドや高野連が打てたはずの手立てはありました。
それをせずして、”コト” が大きくなってから、
というコメントは、
という、「同じ疑問を投げかける燃料」を与えているだけに過ぎないのです。
むしろ、大人たちの初動の悪さや判断の悪さに加えて、
と、勘繰られてしまうきっかけにさえなりました。
そしてそれが、まるで「報道機関が擁護したかのような構図」に見えてしまうのは、上記のコメントを見たらいたしかたのないことなのではないでしょうかね。
報道機関はSNSと違い、利益があるとはいえある程度は公的に(フェアに)情報を報道する機関です。
誤解されるようなコメントも控えなければなりませんし、一方的な偏向報道だって許されません。
それがまかり通ってきたのですから、報道機関に対する疑念や批判が集中するのは、当然のことなのではないでしょうかね。
このコメント一つだけではなく、
と、報道機関も倫理的かつ教育的な判断が必要だったはず。
そうした判断ができなかったことにも、国民はまたあきれ返っているのです。
2025年7月の選挙の前後から、より偏向報道が顕著になってきた報道機関各社。
と批判的になる前に、報道機関によって害を被(こうむ)る生徒たちがいることもまた、忘れてはいけませんよね。
おわりに
いじめ問題とは、深刻でありながらもなかなかに消えないものです。
しかし今回の事案としては、
- 学校
- 高野連
- 報道機関
の全てのムーブが悪く、後手(ごて)に回っていただけでなくて、それぞれが自分のことしか考えていないようにも見受けられました。
暴力を振るっていた生徒たちが悪いことは百も承知。
しかし、それ以上に変わらなければならないのは、大人たちなのではないかと、僕は感じています。
それではまた!
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