僕が欲しいものとは一体なんだったのだろう【足るを知った男の末路】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、大学時代の先輩や友人と会い、花見をしてきました。

楽しみにしていた会食でしたが、思った以上に「食べられなかった自分」がいました。

僕は普段からあまり食べないため、173cmありながらも、最近では64kg台をマークしています。

【2025年2月】

無理をしているわけではありませんが、

節約もしたいし、食の節制でもするか

と思い、結果的に痩せてしまいました。

よって「食系」の動画を見ますと、とてもお腹が空いている自分に気がつきます。

花見当日は、

よし!こういう時にこそたくさん食べよう!

と思ったのですが、お腹が追いつかず、途中で「もういい」となってしまいました。

今日は「足るを知ること」や「今生きている幸せ」について書いていきます。

僕らはもう幸せだ。足るを知り、今生きていることに感謝しよう。その上で、他のことにも目を向けてゆくのだ。

実はそんなに食べられない

さて、飲食系の動画を見ますと、

うわー!美味しそう!

と思うわけですが、僕自身の食生活は以下の通りでして、

  1. 朝はオートミール+ハチミツ、豆乳
  2. 昼はチキンサンドウィッチ、チョコシュー(コンビニ)
  3. 夜は納豆+キムチ+卵、おにぎり、プリン(+αでお菓子など)

という、なんとも質素な生活です。

友人と会う時はガッツリ食べるのですが、普段からこんな食生活を行なっているからか、こういう友人と会う時に頑張ってたくさん食べようとしても、なかなか食べられません

最近では、

今日は何を食べようかな!

というのがもっぱらの幸せだったのですが、いざ食べようと思うと全然食べられないのですから、残念なものです。

ちなみに「何食べようかな?」と言いつつ、選択肢が豊富にあるわけでもありません笑。

あれ?僕の最近の幸せって、「食」じゃなかったっけ?

と思ったのですが、体が最適化されているため、思った以上に量が食べられなくなっていたのです。

足るを知る」とは昔から僕が大事にしてきたことですが、その信念もあってか、食が細くなっていたのでした。

すると、

あぁ、食べられる量にも限界があるんだな

と感じました。

食べる前は、

いくらでも食ってやる!

と勇んで食卓に向かうのですが、一口目でギブアップ。

実際はそんなものなのです。

  1. 足るを知れば
  2. 食の量が増えることはない

「大食い(大食漢)」でなければ、体はそうなっていきます。

では僕の幸せと一体何なのでしょうか。

  • 人と合う
  • 美味しいものを食べる

以外に思い当たる節が、あまりないんですよね。

節制をしていたからか、唯一の楽しみである「食」に関しても、あまり食べられなくなった。足るを知るようになったからだ。

五感があるだけで幸せ

先輩や友人たちと話していて出てきた意見は、

実際には目があって耳があって鼻があって、こうして手を使って美味しいものを食べられているのだから、それが幸せではないだろうか?

という話でした。

僕は時にする「外食」を贅沢の部類に位置付けていますが、実際に多い量はもう食べられません。

むしろ、こうして「何食べようかな?」と思うことだけでも十分幸せであり、足るを知ることができている証拠なのだと思いました。

じゃあ、僕にとって食べること以外に何か幸せってあるだろうか?

と思った際に、最近の考え方である「生きているだけでもう十分だ」という考え方に至りました。

2025年の1月に父が他界しましたが、その時に感じた「」というものもまた、計り知れないものでした。

  • 吸う空気も
  • 食べるものも
  • 触れるものも
  • 話す友人たちも

たまたま今、僕という人間が存在しているから感じているだけであって、地球にとっては本当に一瞬限りの小さな存在です。

この世に生まれ、日本という国で育ち、少し貧乏だけど不自由なく過ごせている

この事実に気づくのに、だいぶ長い年月を要しました。

当たり前だと思っている「今日」も、明日無事に迎えられるかは誰にもわかりません。

僕が世界一周をした時も、その覚悟を持って旅立ったものでした。

たまにする外食や、友人と会うことも幸せですが、この世に生まれて日本で生きているだけで、僕はとても幸せだったことに気付かされました。

桜を見て、春の匂いを嗅ぎ、サウナに入ってコーヒーを飲む。

こんなことができること自体、 “奇跡” なのです。

また、SNSが発達しているこの時代だからこそできる生き方もあって、本当に恵まれているのだなと感じる日々ですね。

そうか。「今いる」というbeingにフォーカスを当てれば、僕はとても幸せだったのだな

幾度となく感じてきた「幸せ」でしたが、また改めてその幸せを感じた一日となったのでした。

五感があって、「生」を感じられている時点で幸せだ。僕が求めているものは、もう実はあまりないのだ。

今の幸せと他の問題は分けること

このブログでは、

日本に生まれただけで幸せなんだよ

とは言ってきましたし、みなさんにもある程度は納得していただけているかと思います。

もちろん、

  • 他の国はどうでもいいのだとか
  • 人それぞれ幸せとは限らないだろとか

そういうご意見は「全く別の話」です。

僕自身も、こうして毎日を過ごせているのはいろんな方々のおかげでもあり、自分が選択してきたおかげでもあったと思っていますから、自分の視点から他のことまで一般化しようだなんて思ってはいません。

それぞれ抱えている悩みはあって、僕もここでは書きれないことがたくさんあります。

ただ、「日本に生まれて平和な世の中を生きてきた」ということを考えれば、 “その点においては” 感謝すべきだと思っています。

一方で、山積されている課題も日本にはありますし、この日本だからこそ抱えるような「悩み」もあるわけです。

これらは全く別の話であり、切り分けて考える必要があります。

それはそれ、これはこれ

と。

日本の中でも貧富の差はありますし、

  • 外国人の移民問題
  • 取られすぎている税
  • SNSのフェイクニュース
  • オールドメディアの偏向報道

など、起こっていること全てを一般化することなんてできません。

僕にも政府に対する不満や人生の悩みは(少しだけ笑)ありますが、総合的に見れば「幸せだな」と思うのです。

僕くらい生活費が少ない独身男性ですと、日本では「最強/無敵」状態となり笑、

まぁ、なんだかんだで食っていけるっしょ

というレベルに達することができます。(世界も一周してきましたし)

特に、

  • 先生になりたての極貧一年目
  • この一年の個人事業主としての生活

を経験した僕からすれば、より「なんとかなる精神」が強くなりましたからね笑。

その上で、

  • 何に幸せを感じるのか
  • 自分の教育観はどうなのか
  • 言語学習をしてどうなりたいのか
  • 今の日本政府や若者たちにどうなって欲しいのか

を決めていくというだけの話です。

僕はある程度「自分は幸せだ」と思っていますし、一方でもっと向上していきたい気持ちもあります。

ものごとをざっくりと見る能力も大事ですが、同時に、

細分化して一つ一つについて議論する必要もある

と思っています。

いつでもこのバランスを忘れないことです。

僕のブログではいろいろなことについて書いていますが、決して一つの記事において、

だからこれで決まりね

と言っているわけではありません。

1,000記事以上書いてきた中で、紆余曲折しながらまとめつつある意見なのです。

いずれにせよ、「今」の幸せを感じることは大切なこと。

その上で、身の回りで起きている事象について考えていきましょう。

今幸せであると感じることは素晴らしいことだ。同時に、それとは全く別の次元の話についても考えることもまた、大事なことなのだ。

おわりに

僕は今を生き、そしていつかは土に還っていきます。

花見をした僕らからすれば、桜が満開になるのは一瞬かも知れませんが、 “桜たち” からしてみれば、かけがえのない “とても永い輝き” なのかもしれませんよね。

そんなことを考えながら、今日もまた生きていきましょう。

それではまた!

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