忖度なんかせずに生きていったらいい【人の顔色をうかがわない姿勢】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

以前は高校教員という「公務員」の立場でしたから、いろいろと窮屈なことがありました。

今となっては後ろ盾となるものはないものの、それと同時に、

  • 利権
  • しがらみ

などがないことから、自由に発言をしています。

もちろん、

言いたいことを言ってバトルすればいい

とは思っていませんし、常に冷静ではいたいですよね。

僕は基本的に忖度しませんが、今日は改めて「顔色なんてうかがわなくていい」ということについて書いてきます。

人の顔色をうかがって生きるということは、それだけ他人の人生を生きるということ。忖度せず、自分の人生を生きていこう。

前提として正しくあること

さて、議論をしたり意見を言ったりするということは、そこに「自分なりの正義」があるはずです。

それは一見すると正しく思えますが、大抵は「自分の中だけ」で完結していることが多いものです。

たとえば、

僕はいつも〇〇基金に寄付をしている。これで世界の貧困を救うのだ!

と言っている人がいたとしましょう。

それは彼/彼女なりの正義であって、否定されるものではありません。

一方で、

  • その寄付金は正しく使われているのか?
  • それで救えたはずの地元の子どもたちがいたのではないか?

と、疑問を投げかけ始めますと、実はそれが正義ではなかったということもあり得ます。

それだけ、正しくあるということは難しいことなのです。

大切なのは、

  1. 勢いだけで戦おうとせず
  2. 勢いだけに気圧(けお)される必要もない

ということです。

この社会では常に「議論」が大事であり、僕は朝活でも授業でも、いろんな話題について様々な意見を聞きます。

「その人にとっての正義」とは、他の人にとっては悪であることもありますからね。

それは僕自身にも言えること。

自分の意見を言うことは大事なことですが、それが批判されたり否定されたりすることは前提として知っておかなければなりません。

それでも「正しくありたい」と思うのであれば、いろんな情報に触れて客観性を担保しておくことです。

さらに言えば、人の意見をしっかりと聞いて、

なるほど。そういう考え方もあるのね

と思うことです。

そもそもあなたの話を聞くつもりはない

というスタンスを持っていますと、その人と議論したいと思う人はいなくなってしまいますからね。

自分なりの正義はあってもいいですが、客観性や柔軟性も必要なのです。

自分の意見を言う時は、自分なりの正義があってもいい。ただし、周りが何も見えていないまま、発言していないか気をつけていこう。

弱い人は狙われる

発言をするときに、弱い人ほど狙われます。

これは世の中のいじめ問題がなくならないことと似ていて、「ズル賢いヤカラ」とはそういった弱い人たちを標的にします。

僕もこう見えて、よくいじめられていたものでしたが、

論理的に話している場合においては、対等に戦える

と思っていました。

ここで暴力や威嚇、大きい声などでの威嚇が全てだと思っている人は要注意です。

そんなもので「人の心」を折ることはできないからです。

本当に強い人とは、正当に戦って勝つ人のことを指します。

もちろん、「大きな声を出すヤカラ」たちには大きい声でやり返すのも一つの手ですが笑、

感情的になったら絶対に負ける。

冷静な奴にはかなわない。

と、かのイチロー選手も言っている通り、冷静なやつほど怖い存在はいないのです。

だから僕は、相手が声を張り上げれば張り上げるほど、

効いてるなぁ

と思ってしまうんですよね笑。

今日のテーマは、

感情的になって、意見を言いまくればいい

というわけではなくて、ちゃんと自分の主張を通すことです。

そうすると、卑しい人たちは「イヤがらせ」をしてきます。

むしろそれこそが、自分の正しさを証明しているとも言えますけどね。

物腰が低いことと、弱々しく発言することは全く意味合いが違います。

その点を履き違えないことです。

相手がどんな立場であっても、忖度なくはっきりと言うこと。

相手を傷つけたり、人の目の前で大恥をかかすようなことは違いますけどね。

ウジウジしたりはっきりとモノが言えない人には、上からマウントを取ってこようとする人がいますので、注意しておきましょう。

弱々しくしていると狙われる。はっきりと自分の気持ちを伝えることが大切だ。

忖度せずに堂々と

目上の人やちょっと偉い人と話をしていますと、どうも、

忖度をして話さなければならない

と感じてしまうことがありますよね。

礼儀として丁寧に対応することは大事なことですが、相手の機嫌をうかがって発言をすることなんて、なんだか怯えているみたいで僕は好きではありません。

これも別に「弱気で行くな!強気で行け!」という意味ではなくて、

人の顔色をうかがっていなければならないってどうなのよ?

ということを言いたいのです。

「忖度をさせる」ようなことも僕はしたくありませんし、そのように「上下を意識すること」はあってはならないと思うのです。

何度も言いますが、

  • 敬意としての敬語
  • 相手を敬い尊敬すること
  • 下手(したて)に出ること

はわけが違います。

僕だって丁寧な言葉を使いますし、「気を使いたいと思わせる人」はいます。

「圧のある人」がダメなのであって、本当に強い人とは、こちらがいくら下手(したて)に出ても偉ぶることはありません。

僕もそうでありたいですね。

忖度をするな

とは僕も言いますが、その気持ちと「人としてのあり方」は別物だということです。

間違っていることに対してはしっかりと「間違っている」と伝えること。

場合によっては、自分からではなく「正しい措置」を取ってもらうことも大事です。

僕が教員だった頃は、教員間での上下関係が多かったのですが、どうしても噛み付いてしまう僕は、

あの先公、マジでうざい

と、先生にながらに毒を吐いていました。(おいおい笑)

さすが、川崎が産んだ暴れ馬です。

ただ、それでは解決しないこともままあります。

そんな時は管理職に相談する、つまりは「第三者に適切に判断してもらう」ということも必要です。

ある意味それは、「忖度をせずに告発した」ということでもあります。

「忖度をしない」=「感情論でもいいし、冷静に攻撃してもいい」

というように、相手を傷つけたり貶(おとし)めたりすることが目的でないのですね。

ちゃんとみんなと調和して生きていきたいからこそ、言うのだ

という精神性が必要。

それこそが「人としてのあり方」なのでしょう。

逆に堂々としていなければ、相手のやりたいようにやられてしまい、自分の「精神的なテリトリー」が侵されるだけでなく、周りの人も迷惑を被る可能性があります。

堂々とフェアに戦うことは、自分勝手にモノを言うこととは違いますからね。

この差は絶妙なものなのかもしれませんが、とても大事な感覚なのだと思っています。

他人に忖度する必要はないが、モノの言い方や態度には気をつけておこう。その上で堂々とフェアに伝えることが大事なのだ。

おわりに

人に自分の意見を伝えるということは、難しいことです。

僕だって間違うこともありますし、語気を強めて発言してしまえば、人を傷つけることにもなりかねません。

大切なのは信頼関係や、その場の空気感でもありますし、その人の人間性などでしょう。

ただ、

  • 顔色をうかがったり
  • 相手の言いなりになったり

するような関係性には「NO」を突きつけましょうね。

それは間違った関係性ですから。

それではまた!

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