人の生き方の自由は終わらないものだ【僕が他人を縛らない理由】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、生徒さんと話していますと、

先生は彼女を縛るほうですか?

と聞かれました。

以前に記事にしたように、僕は「人を縛る人」が好きではありません。

自分がとにかく自由でいたいからです。

人を縛る人は、結局自分も縛ることになりますし、それは、

  • 自身の自信のなさ
  • パートナーや友人を失う恐怖

からきているのだと思っています。

今日は「自由に生きること」について書いていきます。

自由に生きることは僕らの特権だ。それを否定することなんてできないのだ。

自由でいること

僕は昔からリベラルな人間でして笑。

おかしいと思うことにはとことん「おかしい」という人間です。

若い時にも、

は?意味わからんし。ちゃんと理由を説明してくれ

と、血気盛んに議論をふっかけていたものです笑。

教員時代も、くだらないグダグダな会議で発言をして、

お前ら、一体どうやったらそうなるんだ?

と首をかしげていたものでした笑。

僕を縛る人、要は感情的になって、

  • 思想
  • 行動

を強制しようとしてくる人が、僕は普通にキラいです。

というより、そんな人を好きな人なんて、いないのではないでしょうか。

自由でいいよな

と言ってくる人もいますが、日本に住んでいる以上は、 “ある程度” 自由が約束されていると思っています。

人に制限をかけてくる人なんて、ただ他人をコントロールしたいだけでしかありません。

以前書いた通り、

  1. 自分に自信がなく
  2. 他人を支配できると信じ込んでいる

典型的な「弱虫」です。

人はもっと「自由であるべき/させるべき」なのです。

誰かが支配したり、しなかったり。

そんなもの、ただの独裁者でしかありません。

仮にパートナーがいても、常識の範囲内でお互い「自由」にしたいですよね。

友人に対してもそうです。

僕を嫌う人もいれば、僕がキラいになる人もいます。

それを気にしないくらい、

勝手にすれば?

と構えておきたいところ。

もちろん、傍若無人に振る舞い、失礼な対応をしていいというわけではありません。

適切な距離を取れるからこそ、

  • 友人
  • 同僚
  • パートナー

とうまくやっていけるのです。

人は自由であるべきだ。そのためには相手を縛らないこと。他人を縛っている人とは、つまり他人を支配しようとしていることになる。気をつけよう。

人を縛らないと気持ちいい

僕は万が一パートナーができたとしても、別に他の男性とご飯に行ってもらって構いません。

だって自分も女性の友達や先輩、後輩とご飯に行くことがあるからです。

不安じゃない?

いえ、全く笑。

それで不安を感じている時点で、

  • 相手に対する不信感
  • 相手を支配しようとしているフシ

がありますね。

例えば浮気や不倫が続き、それらの事実が明らかに発覚したら、僕は「それまでだ」と思って普通に別れるだけだと思います。

あるいは、

自分にそれだけ魅力がなかったのだ

と軽く反省するか、ですね。

基本的に「縛ってほしくない」と、誰もが思っている。

そういう規定が、僕の中にはあるのです。

もちろん、

  • 子どもがいるのに
  • 付き合っているのに
  • 長い付き合いの友人なのに

と、様々な条件のような「縛り」はそれぞれあるかと思います。

でも僕がいつも思うのは、

誠実に生きていれば、それで十分だと思う

ということです。

その上で自由に生きる分には、それでいいじゃないかと。

そこには、関係値や他の要素なども絡んできますから、 “自由” にもいろいろな制限はあるかと思います。

ただ、前提に「人を縛ること」が頭にある人、あるいはそれを自然と行なってしまっている人は要注意です。

人を縛れば縛るほど、自分の首も締まっていきます。

だから僕は、人に期待することもしていませんし、

なんでこの人は変わってくれないんだ!

と癇癪(かんしゃく)を起こすこともなくなりました。(あったんかい笑)

人を縛らない人生とは、とても生きやすいです。

僕は公務員を辞め、ほぼ自由な身となりました。

誰かに縛られることなく、自由奔放に生きています。

当然、やらなければいけないことや、「縛り」や「制限」のように思えるものもあります。

でも生きている以上は、ある程度自分に課すべきものも出てきますから、心地よいものであればいいのかなと。

人を縛らなければ、人生はどんどん豊かになっていくのです。

僕は人を縛らない。それが自分の人生の豊かさに直結しているからだ。

行動を強制しない

特に僕が人の行動を強制しないのは、自分が自由でありたいからでもありますし、

人ってそもそもそういうものだ

と思っているからです。

人の行動を制限した、

  • 東日本大震災の自粛
  • コロナ禍の時の行動制限

は今でも忘れていませんし、間違っているとすら感じていました。

どちらのケースも、あの時の状況が起こった経緯は「わからないでもない」のですが、

果たして絶対の正義だったのか?

と思い返してみますと、疑問に思う部分も多々あります。

特にことパートナーや友人に対して、

こうあってほしい

と言いつけることは、その人に対して「首輪をつけていること」になってしまいます。

やはりそうした行為は、してはいけないのだと思っています。

もちろん、

こういう行動はやめてほしい

と、間違った行動や言動に対しては、自分の裁量が効く範囲ではっきりと言います。

これは他人を縛っているわけではなくて、

  • マナー
  • モラル
  • 人としてのあり方

に基づくものであって、縛りではありません。

大切なのは、根本にある「考え方」なのかなと。

会社や学校で働くとなれば、自らに「足枷(=縛り)」を設けることとなります。

その代わりに、いろんな権利が与えられることも事実です。

僕にとっては、それが合わなかっただけでした。

行動制限をされた “未曾有の出来事” があった時でさえ、

なんでこんなことしなきゃいけないんだ?おかしいだろ!

と声をあげていた派です笑。

もちろん、難しい局面でしたけどね。

僕は必ずと言っていいほど、人の思想や行動を制限しません。

ただ、議論することそれ自体は好きですが。

そうやって人の行動を制限すること(=自由を奪うこと)で生まれるのは、

  • 反発
  • 不信感
  • ストレス

だけです。

その人が生きたいように生きることが、一番なのです。

もちろん、常識の範囲内でですけどね。

人の行動を制限しないこと。

その関係性を保てる人とは、長く付き合っていけるのだと思っています。

人の行動を制限することは、首輪をしているようなものだ。だから他人を縛らず、自由奔放に生きていこう。

おわりに

僕は人を縛ることをしません。

それがたとえパートナーであっても、です。

相手を縛ろうとすればするほど、それは自分に跳ね返ってきます。

自分が自由でいたいからこそ、人のことも自由にさせてあげるべきです。

パートナーや友人の行動に「こうあってほしい」と思っている人は、気をつけましょう。

それではまた!

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