こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日飲んだ友人たちと話をしていて、僕の「離婚の話」がでてきました。
以前にも離婚したことにを記事にしており、僕は肯定的に受けとめています。
結論から言いますと、立ち直るのにそこまで時間を必要とはしませんでした。
離婚直前・直後あたりは、さすがに精神的に参っていましたが、それと同時にお金の勉強や読書、何より内省や内観を始めていたことが大きな救いとなりました。
読み終わりましたファスト&スローの最終章にも、「幸せ」についての記述がありましたので、それも絡めて僕がどのように乗り越え、変わっていったのかを書いていきます。
終わり悪ければ全てダメなのか?
本書ではピーク・エンドの法則も扱われております。
例えば、僕の結婚生活のピークが「挙式した時間」だったとすると、エンドは「離婚した瞬間」だと考えられます。
その出来事においての「ピーク」と「エンド」の記憶が強すぎて、「他の事柄は忘れ去られる」というものでした。
かなり極端な話だと思われるかもしれませんが、例としてクラシックの名曲のレコードが取り上げられており「なるほど確かに」と思わされます。
40分間、素晴らしい演奏を聞いていたのに、最後の最後で音がこすれてしまうと、
と思ってしまうというものです。
「終わり良ければすべて良し」とはよく言ったものでして、人間は「エンド」に強い印象を覚える生き物だからこそ、このようなことわざが作られたのではないかと思っています。
僕の例を取り上げてみますと「離婚した」という事実が結婚生活の最後になったわけですが、果たして単純に「僕の結婚生活は最悪のものだった」と思うべきでしょうか。
結論「それは違う」と、断言することができます。
以前の記事でも、離婚に関しては「肯定的に」捉えていました。
それは「離婚」という言葉自体にポジティブな感情を抱いているというわけではなくて、その時間や過程までも否定することはしたくないという意味です。
すると、
という問いが出てくるかと思います。
僕も、最初はそう思っていました。
ただの言い訳と言いますか、自分は都合の良い解釈をしたいだけなのではないか、と。
しかしいろいろな本を読んで、こう思いました。
なのではないかと。
- 試験に落ちてしまった時、そのために積んできた時間は無意味と思えるのか。
- 芽が出ないまま特定の業界から消えてしまえば、それは無駄な時間だったのか。
- 必死に練習してきたのにもかかわらず、試合に勝てなかったり代表入りできなかったりすることは無意味なのか。
最後は本人の捉え方次第かもしれませんが、僕は人生なんてそんなことの繰り返しじゃないかと思うようになりました。
離婚を「失敗」と捉えることもできますが、そこから学んだことや楽しかったこともたくさんありました。
- 手をつないで歩いた時間
- 嫁さんと一緒に行った場所
- くだらないことで笑いあった時間
僕にとってそのそれぞれの瞬間は、とても幸せな時間でした。
つまり「全部込み込みで、トータルで見たら失敗」というように、簡単な計算に落ち着くことはできないのです。
結果そうなってしまったなら、それは仕方のないこと。
むしろそこから多くを学び、次に繋がる力をもらうことができました。
そうです。
また新たなスタート地点に立ったと思えば、これは始まりなのです。
この考え方に至ってからは、結果を受け入れるようになり、引きずらずに新たなスタートを切ることができました。
まずは自分を大切にすること
以前の僕は、
そう思っていました。
みなさんの中にも、なんとなしにそう考えている人もいるのではないかと思います。
そこで僕が犯した大きな間違いは、「自分のことを後回しにした」ことでした。
「自分を犠牲にする姿」はカッコよく映りますが、その結果「自分を大切にしていない」のであれば、最終的には不幸を呼び寄せます。
僕の場合は自分を犠牲にしたというよりも、何も考えていなかったというほうが正しいのかもしれません。
- 自分のこと
- 家族のこと
- お金のこと
- 将来のこと
- 奥さんのこと
要素が多すぎて考え始めるとキリがなく、それら全てを詳細に決めてから結婚するのは至難の業だと思い、後回しにしていました。
僕は僕自身を過大評価し、なんとかなると思っていました。
雑草魂で育ってきましたし、
という「履き違えた自負」を持っていたからです。
- 「やり抜く力」があるはず。
- きっと相手を幸せにできるはず。
- 自分はなんでも乗り越えられる。
別に傲慢ではなかったのですが、一番大切な視点が抜け落ちていました。
それは、
- 自分は相手との時間をどう感じ、
- 何が自分にとって幸せなことなのか?
- 曲げれられない自分の信念は何なのか?
といった点でした。
要は「自分は一体どんな人生を送りたいのか」が、はっきりとしていなかったんですよね。
ぼんやりと、
- 「教員で一生を遂げるんだろうな…」
- 「結婚して子どもができて平和に育てていくんだろうな…」
などとは考えていましたが、結局は向き合わなければならない「自分のこと」から逃げ続けて、なんでも結婚してからでいいやと思っていたのでした。
現在は内省と内観をしたおかげで、自分の本能や本心はもっと別のところにあるのだと気づくことができています。
つまり僕にとって、
- 自分自身を大切にしてこなかったこと
- 自分の本心とちゃんと向き合ってこなかったこと
が、そもそもの出発点としてよくありませんでした。
本当はそこから始めないといけなかったのです。
まずは自分を大切すること。
そして自分と対話すること。
それができていないのに、相手のことを考えて大切にすることなんて、できっこなかったのです。
人生の豊かさはすでに手に入れている
最近こんな動画を見ました。
と、問いかけているものです。
それを見てから僕は、
と思えている自分に気づきました。
これにはとても驚いたものです。
僕は配当金の獲得や、資産の拡大を目指していたのですが、
と考えるようになりました。
結婚についても、同じように考えを巡らせてみました。
- もし再婚するとしても、自分が今幸せだと思っていることは継続したい。
- 今は十分自分のやりたいことができており、特にパートナーの必要性を感じていない。
仕事についても考えてみました。
- ある意味「人生アガリ」みたいなものかもしれない。
- このまま行けば資産だって順調に増えるだろうし、何の問題もない。
- 職場ではイヤなこともたくさんあるが、お金ももらえていて天職だと感じている。
つまり自分の結婚観や仕事観に対して、今は的確に答えることができているのです。
自分の幸せを探し続けて、1つ1つの疑問にしっかりと向き合ったからこその結果なのかな、と思っています。
そして、
とも考えてみました。
と結論づけることもできました。
以前の僕は、
- 結婚
- 転職
- 子ども
- 経済的自由
という「ラベルの貼られたビン」に思いを巡らせては、
と勘違いをし、「ビンを探すこと」ばかりに躍起になっていました。
しかし「自分と向き合う時間」をとってみますと、これらの「ビン」にはあまり意味はなかったのだと気づくことができました。
そう思ったのです。
幸せになるために、こんな「ラベルの貼られたビン」は要らなかったのです。
こうして僕は、再スタートを切ることができました。
そうして自分と向き合って初めて、
と考えるほうが、正しい順序だったのです。
僕が求めていた幸せは、別に「『結婚』というラベルが貼られたビン」の中にあったわけではありませんでした。
そのような「ビン」を探してのぞきこむことよりも、自分がいかに「幸せ」をもっているかのほうがより大切だったのです。
僕は当時、ビンに入れるべき「幸せ」を、ほとんど持っていなかったんですよね。
でも今は、たくさん「幸せ」を持っています。
今度はそれらを、周りのどんな人にも、注いでいけるような気がします。
せいじ、完全復活ですね。
おわりに
久しぶりに書いてみた離婚のお話。
「本人の捉えようによる」と突っ込まれても、別にいいと思っています。
僕は離婚から多くのことを学び、再スタートを切るバネとすることができました。
大切なのは、あまり深刻に捉えすぎないことなのかもしれません。
本書「ファスト&スロー」では、
というアンケートを取る実験をしています。
多くの人は偏見があって、「かわいそう」という気持ちから「不幸」というワードを導きます。
確かにいきなり視力や手足を失ったのであれば、その瞬間は「耐え難い苦痛」があるかもしれません。
しかし、生まれながらにしてそのような状態であった場合は、
- 「ずっと悲しい…」
- 「なんて不公平なんだ!」
と思うものなのでしょうか。
実はアンケートを取られた人たちも、
と改めてアンケートで問われますと、「そんなに不幸に感じることはないだろう」と判断したのです。
つまり人間は、思っている以上に強いし、前を向けるものなのです。
僕もポジティブですから、そんなに何ヶ月もメソメソはしていませんでした。
そう思えたからこそ、どんどん前に進もう、もっと学ぼうと行動したのでした。
どんな人にだって、苦難や逆境というものはいつか訪れるものです。
そんな時は悲しんだり愚痴ったり、落ち込んだり泣いたりしたっていいのです。
もっと大きな視点を持てば、実は大したことではなかったと思うようになるでしょうから。
僕の人生はまだまだ続きますが、より豊かな人生にできるように、自分の行動を見直しながら、生きていこうと思っています。
みなさんの人生にも、幸あれ。
それではまた!
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