憎しみをなくすことができるのは憎しみではない【和を以て貴しと為す】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、Xでいろんな事件を見てしまいました。

  • 日本の高校球児による暴行事件
  • 中国人の子どもたちの集団リンチ

できればこうした事件は目にしないに越したことはないのですが、あまりにもツラくなってしまい、

ちょっと走ってこよう

と思って、ランニングをしてきました。

こうしたいわゆる「胸糞(むなくそ)」の動画や事件とは日常茶飯事であって、ニュースに出ているのものは氷山の一角でしかありません。

僕は今、平和に生きているけど、一体この気持ちをどうしたらいいだろう?

と思いました。

それでも僕は、心をしずめ、穏やかになることができました。

今日は、そんな「胸糞悪くなった時の対処法」について書いていきます。

何もかも、暴力で解決することはない。どちらかが大人になって折れることも大事なことなのだ。和を以て尊しと為すのだ。

一度イメージをしてみる

僕が見てしまった動画は、女の子(出身はわからない)が、集団で暴行を受けていた動画でした。

もちろん、血が出たりとかそういった激しいものではなくて、ちょっとしたイジメのような感じでしたが、

おいおい!こいつら、一人の弱い子をよってたかってイジメやがって!今からしばき倒していい?ボコボコにしたるわ!怒

と、はらわたが煮えくり返りそうになりながらも、スッと動画を閉じました。

もちろん、この手の動画(差別やイジメの現場)を見てしまった人は誰でも、

なんとかなんないのかよ?!

と思っているに違いありません。

でもみなさん、ここで一呼吸おいてみてください。

仮にみなさんが、「正義のヒーロー」になったとしましょう。

その場に現れて、”残虐なまでに” いじめっ子たちをボコボコにしてしまったら、どうなるでしょうか。

その場で助けたり守ったりすることはできても、「いじめっ子たち」を暴力で黙らせることは、なんの解決にもなりません

一度イメージしてみてください。

あ…なんだかそっちのほうが残虐じゃないか…

と。

暴力が最良の解決策ではないことに、すぐに気がつきます。

僕が若い頃(教員時代)は、

教員とはある程度、生徒を力でねじ伏せることも必要だ

と勘違いをしていました。

今でもこうした「胸糞悪くなること」はありますが、だからと言って僕が仮にこの場に現れても、

ただ彼女を守ることに、徹するくらいだろうな

と思いました。

月並みの言い方かもしれませんが、

  1. 暴力を暴力で解決したとしても
  2. 解決したように見えて、実はまた暴力を生む

からです。

根本は、その場を治めることではありません。(もちろん助けられるのであれば助けたい)

いじめられている側が、なんとかして強くなることも一つの解決策かもしれないですし、政府が介入してそうした教育をやめさせることかもしれない。

根本を解決したいのならば、暴力には頼らないこと。

イメージをしてみれば、イジメられていた子がいかに強く、歯を食いしばっていたのかがわかるのです。

胸糞悪くなるような事件もあるだろう。そこにどうやってアプローチするのか。暴力が解決策なのか。否。それはまた暴力を生むだけなのだ。

和を以て尊しと為す

日本には、「和を以て尊しと為す」という言葉があります。

僕は、これが全ての解決策になるだなんて思ってはいませんでしたが、ここ最近では、

いかに相手を許し愛を与えられるかが、解決の道なのだろうな

と思うようになりました。

日本でも悲惨なイジメが起こるのは避けられませんが、この考え方はとても重要なのだと思っています。

イヤな事件があっても、その人を憎んではいけません

は?せいじ、お前キリスト教祖にでもなったんか笑?そんな甘いもんじゃねーよ。笑わせんな

と言われるかもしれませんが、先ほどの「イメージ」をして見ますと、

  1. 結局はまた暴力が繰り返され
  2. 憎しみのスパイラルから抜け出せなくなってしまう

ことは明らかでしょう。

だから彼らを責めるのではなく、そうした体制や教育を責めるべきなのです。

平和的解決ができないこともありますから、その時には警察も必要でしょうし、国家間であれば武装の話をすることは大事なことです。

それでも、イジメていた子どもたちや悪者を取り上げて再び “リンチ” をしてしまえば、それもまた「イジメ」であって、同じ土俵に上がっていることとなります。

漫画ワンピースの『空島編』で、ルフィとゾロがケンカを買わなかったように、その場で「相手を完膚なきまでに叩きのめすこと」が目的ではありません。

僕が先生だった頃も、教員の立場としてある程度権力がありましたが、気に入らない生徒に暴言を吐いたり、高校から追い出したりすることは当然、しませんでした。

大事なのは、そこでも「教育」だと思うからです。

同じような暴力(言葉の暴力も含む)を繰り返しても、何も解決できないということ。

和を以て尊しと為せるかどうかが、僕らが取るべき戦い方なのです。

イジメや残虐な行為をする人を責めてはいけない。そうした国家や体制、教育が間違っているのだ。責めるべき点はそこなのだ。

自分にできることをやること

以前にも、

ネガティブなニュースは見ないこと

と、釘を刺した記事を書きました。

世界にはこんな差別や武力行使が日常的に行われており、それを知ること自体は大事なことだとは思いますが、一方で「あえてその情報を取りに行くこと」はあまりいいものだとは思っていません。

それらはたまたま僕らに見えているだけであって、もっと残虐で悲惨なことは、知らされてすらいないこともあるからです。

じゃあ、僕らにそうした類の情報をとる必要はあるのだろうか?

という問いが生じます。

答えは、

あるいは見たとしても、怒りや憎しみを抑えることです。

日本に生まれた僕らは、世界の諸外国に比べれば、

  1. 差別されたこともなく
  2. 侵略されたこともなく
  3. 先祖代々が作ってきたこの日本という土地に生まれた

わけでして、悪い言い方かもしれませんが「素晴らしいカード」を配られたと言っても過言ではありません。

だから平和ボケになっていればいい

とは言いませんし、知ることは大事なこと。

ただ、「世界の悲惨なニュース」を取りに行っては、

くそっ!俺/私には何もできないじゃないか!なんとかあいつらをぶっ潰さなければ!

と、なってしまったら、戦争を仕掛けている人たちとマインドは一緒です。

時には止めたり注意したり、助けたりすることもできるかもしれません。

しかし僕らの生きている世界とは、思っている以上に「狭い」もの。

僕もイジメられた過去がありますが、誰かに助けてもらったところで「僕という人間」が成長することはなかったと思っています。

自分自身を強くするために、何をしたらいいだろうか?

と思い、

  • 勉強し
  • 筋トレし
  • 人を愛すこと

を学びました。(これが正解かどうかは定かではありませんが笑)

時には人間関係を切らなければなりませんでしたが、それはそうした憎悪の増幅を防ぐためでもありました。

決して、被災地にボランティアに行くことや、イジメの現場で助けることを否定しているわけではありません。

大前提として「自分の人生」に集中し、やれることをやっていくことが大切だということ。

これは時に冷酷に聞こえるかもしれませんが、ネガティブな事件とは考え始めればキリのないことでもあります。

僕も世界平和について考えることはありますが、それとは別に、

自分の人生で関わってゆく人たちを、どうやって幸せにしていこうか?

と考えるほうが、実は近道かつ現実的だったりもするのです。

世界では、様々な非道が日常的に頻発している。そこに目を向けるのではなく、自分の人生に関わる人たちを大切にしていこう。

おわりに

この手の話はとても難しくて、まるで僕が、

自分に関係のないやつは助けなくていい

と言っているようにも聞こえてしまいます。

もちろん、できるのであれば即座に行動に移すことも大事なことです。

ただ、人間一人には限られたリソース(=資源)しかありません。

だったら、

それを最大限に使うにはどうしたらいいのか?

を考えることです。

日本にも辛い人生を送っている人もいるかと思いますが、僕らは日本に生まれただけである程度ラッキーです。

その中で、人のためにできることとは何か。

それを探っていきましょう。

それではまた!

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