30代になって実家に帰ったことで感じたこと【顔を見せる意味】

人間関係

こんばんは。

30代になってもまだ実家に顔を出していますすずきです。

一応同じ県内ということで自粛要請されている帰省に入るものの、ちょっと違う感覚だから良かろうと思って帰省?しました。

まだ両親ともに元気ですが、父の方が認知症なのかわかりませんが、ひどくなってきておりまして最初はなかなか話せなかったのですが、久々に母・妹ともいろんな話をした次第です。

いつまで経っても親は親。

すずきは過去に壮絶な闘いを繰り広げてきましたが、今となっては曲がりなりにも親孝行と言えるか定かではありませんが、たまにこうして実家に帰ることにしています。

そんなすずきの知られざる家族に対する思いをお伝えします。

顔を見せる

いくつになっても親子というのは切っても切れない関係であります。

その関係が良好であるならば、できる限り長い間見守りたいのはそれぞれ抱く想いだと思います。

以前は反抗期真っ只中のすずきだっため、親の顔を見るのも嫌な時がありました。

しかし年を重ねるにつれて親もすずきも丸くなり、対等に話す仲となりました。

そう考えると僕も「あぁ親と会えるのもあと何年かかもしれないな」と思い、年の節目節目に会いに行くようになりました。

そうなんです。当たり前ですが僕がどんなに年老いたとしても、自分の親は死ぬまで親であり続けます。

いろんな関係があるとは思いますが、会えるのであればぜひ会ってあげてください。

それが最大の親孝行だと思います。

もしかしたら明日会えなくなるかもしれませんから。

そう思い始めてからというもの、顔を見せるだけでもいいので会いに行くようにしています。

すずきもなかなかに考え方が変わったものです笑。

なんでも話せる

僕の親も兄妹も、なんやかんや言ってオープンにいろんなことを話すことができます。

ゆえにここ1年でためにためてきた、インプットしてきた知識たちを家族と共有することにしてみました。

お金の話はもちろん教育や仕事の話や世界の話までと、幅広く知識を共有すること(付け焼き刃ですが)、つまりアウトプットすることで自身が身につけて来た経験や役に立ちそうな知識を伝えることができました。

普段こうしてブログを書いていることも後押ししてスラスラと話すことができたため、改めて普段のアウトプットの習慣の力は凄まじいなと思いました。

また様々な場所に行ったため、美術が好きな妹にも美術館をオススメすることも怠りませんでした。(押し付けがましいな)

「どの家族でも」とは言いづらいですが、やはりこうして気兼ねなくしゃべることができるのは親戚だからこそですよね。

以前は特に話すことなんてないよなと思っていたすずきも、捲(まく)し立てるように自分の考えや思想、信念や経験を話すことができました。

家族の近況も聞きつつ「こういう考えもあるよね」「この動画チャンネル勉強になるよ」「あの本オススメ!」などアドバイスというより自分への復習として生産性のある対話を繰り広げました。

これは家族に限ったことではなくて、以前からの僕のテーマでもある「常日頃からのインプット(勉強や経験)」をしておくことで、久しぶりに会う人と本当に多くのことを語ることができるのだなと、改めて感じたことでした。

今日も話してみて思ったのは「今後もインプットを続けよう」ということです。

はい。止まる気はサラサラありません。

たくさん経験を積んでアウトプットする準備をしておこうと思います。

親とは対等である

先ほど書いた通り、すでに30代に突入しているすずきは、それなりにいろんなことを経験しましたので、話す内容もだいぶ大人びた内容で会話ができました。(大人ですからね)

すると僕が最近たくさん本を読んでいる分、親と意見がすれ違う(というか理解しづらい)部分もありました。

そりゃそうです。

生きた時代も、考え方も、年代も、関わった人も、環境も違う、ひとりの人間なのですから。

幼い頃は家庭が子どもたちの思想の多くのパーセンテージを占めているものですが、そんな「トリカゴ」から解き放たれ、様々な尊敬できる友人や先輩後輩、同僚や上司に出会った兄妹それぞれが、生き方や信念に変化がないわけがありません。

少しドライな言い方かもしれませんが、大人になっていく子どもたちは別の、もう一つの「個」であり1人の人間として尊重されるべきです。

たとえ血が繋がっていても。

ゆえに対等な関係でありずっと親子関係は続くとしても、いつまでも親が絶対の正義やルールであるはずがありません

子どもが自立した人間であるのならば、彼らの生きたいように生きさせるのが親ってもんではないでしょうか。

そこで少し父といろんな話をしましたが、以前の自分からトランスフォームしたすずきは理路整然と話をすることができましたし、納得できない部分を指摘したりすることもできました。

それは父のことをいい意味でちゃんと「他人」としてみることで、ハッキリと気持ちや考えを伝えられた瞬間で、今まであまり感じたことのない気持ちでした。

重複しますが、しっかりとたくさん学んだり動いたことで様々な経験が積み上がったからこそ、説得力が増したのかなと思います。

偉そうに書いていますが、家族と話すことで自身の成長を感じられて正直びっくりしております。

こんなこともあるんですね。

そういう意味でも大感謝ですね。

余談

久しぶりに実家の周りをうろついてみると、最寄り駅から昔通った小学校、よく遊んだ公園が目に入ります。

昔は小さかった自分が今となっては肉体的に大きくなって育った地元を闊歩すると、意外と狭い世界なのだなと気づいたり、あるいは発見があったりもします。

ホーム感を強く感じることができ、凱旋した五輪選手さながらに大手を振って歩く姿は滑稽でもありました。

しかし人間誰しも、始まりは必ず狭くて小さな世界です。

社会人になっても成長を止める事のない筋肉ゴリラがこうして久しぶりに帰ると、甦る数々の思い出が走馬灯のように過ぎていったわけではありませんが、やっぱりどこか安心しますし、自分が今は広い世界へと飛び立てたのだなと感じることができます。

微量ながら成長して帰ってきた自分に、改めて「また成長して帰ってくるからな」と約束を誓うこととなりました。

数年後に今の行動が全て結果として出るように、精進し続けていきますね。

おわりに

家族とは一番近い存在でもありながら、特殊な存在でもあると思います。

生徒の家庭をほんの少し見てみても、それぞれの「形」があってその都度様々なことを感じます。

いつでも身近な存在、あるいは帰ることのできる温かい場所であっても、自分という人生をその後ちゃんと進んでいけるかは、結局その人次第です。

僕も家族という存在を大切にしなければとヤキモキしていた頃から考え方が変わり、いい意味でほどよい距離感を保つことができるようになりました。

自分の人生じゃないか。もっと自分で切り拓いていかなくちゃ」と思えたからです。

今でも家族のことを100%愛せているかというと多少の疑問は残りますが、少なくとも以前よりは愛せるようになったんじゃないかなって思います。

両親が老い、自身が成長したということもありますが、何より最近続けていた多読がいろんな視点を僕に与えてくれました。

親といろいろ話している時に、自分がこんなにも熱くなってしゃべるのかと思うほどに、仕事から人生観まで熱く語ることができたのは、他でもない自分が自分を変えようと起こした行動の結果なのかなと思いました。

まだまだ成長段階ですしたくさん未熟なところがあるのですが、それもまた今後の成長の楽しみとしておけばオールOKです。伸びしろあり。

家族のもとに帰ることは安心する場所への帰還ではなく、成長した自分を見せる場でもあるのだなと感じた1日でした。

まだまだ伸びますね。日々精進です。

それではまた!

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