何かを信じることはいいことなのか【崇拝しないことで理性的になる】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

とても有意義な動画が上がっていましたので、拝見しました。

最近政治に興味が出てきた僕からすれば、このお二方のコラボとはとても嬉しいものでした。

ついこの間も、地政学に関する書籍を買いましたので、早く読みたくてうずうずしています笑。

今日は「信じること」について書いていきます。

何かを信じて突き進むことはいいことだ。しかしそれが崇拝となってしまった時、人は感情的になってしまう。

政治と宗教

動画の冒頭から茂木先生は、

政治と宗教は切っても切れないもの

とおっしゃっていました。

元々「政(=まつりごと)」という言葉が「政治」という字の中に入っているように、天皇とは元々神から受けた命を国民に指示する役割を持っていたとされています。(祭祀を司る宗教的存在)

日本人は無宗教だと言われていますが、昔からいろんな宗教や思想を受け入れてきた歴史がありますよね。

僕はここ最近「神道」に興味があるため、神道が宗教ではないものの、

日本人に根付いている一種の思想/宗教なんだな

と思っています。

ゆえに、政治には何かと「思想」やその人の考え方のようなものが入り込んでいることは事実です。

先の参院選で僕がかなり興奮していたのも笑、

日本には『日本』であり続けてほしい!

という強い(主観的な)願いがあったからでした。

「政教分離」というのは現代では当たり前のようにも聞こえますが、実は裏ではそうした思想があるのだなと再確認できました。

  • 僕自身にも
  • みなさんにも

それぞれの信念や考え方があるように、政治にも何かしらその人なりの「指針」みたいなものがあるからこそ、複数の政党があるんですよね。

特定の党を「支持する」ということは、

自分の考えに近い人たちに投票する

ということでもあります。

この前提に立ってみますと、

なるほど。政治だからと言って思想が絡んでくることは普通なのだな

と理解できますよね。

そこを否定して、

いや!もっと冷静に政治を見るべきだ!

というのは、少し難しいことです。

動画内でも、

中立は無理。自分の思うところを語っていけばいい

と、茂木先生もおっしゃっていましたね。

政治と宗教は何かしらの関係性がある。それを理解した上で、自分の支持したい政党に票を入れてみよう。

行き過ぎた信念は差別を生む

2025年は政治色一色となった僕のブログですが笑、これが行き過ぎてしまいますと、排他的な人間になりかねません。

右も左も関係なく、

自分の応援する政党は〇〇党だから、意見の合わないやつは排除する!

という人ですね。

どんなに日本が好きな人でも、行き過ぎてしまったら暴力的になり、気に食わない相手とは議論をしようとしなくなります。

逆もまた然りです。

これは僕自身にも言えることですが、あまりにもヒートアップしてしまいますと、感情的になって他の人の意見を受け入れられなくなるのです。

参院選で支持していた人も、

うーん、やっぱりここは違うなぁ

と思ったりと、僕自身も気持ちの変化に合わせながら政治をウォッチしています。

政治家がアイドルっぽくなってしまっていると言われているが、元はと言えばアイドルとは「偶像」、つまり偶像崇拝から来ている

と、茂木先生は言います。

英語を学習している方の中では、「アイドル = 偶像」というのは有名な話ですよね。

このように「推し」ができてしまいますと、誰だってその人やグループを否定されれば、ムッとなってしまうのは想像に難(かた)くありません。

夏の参院選でも「差別だー!」と叫んでいる人たちがいましたが、あれも一種の偶像崇拝だと言えます。

  • 自分たちは正しい
  • 意見が違う人は認めない

と側(はた)から見れば、「全く差別をしていない人たち」に向けて謎(かつ一方的)な誹謗中傷をしていて、

一体この人たちはなんなんだ?

という声が、SNS上でたくさん上がっていました。(僕だけじゃありません)

言葉はどんな形であれ、相手を否定したり妨害したりしているということは、自分の中に「行き過ぎた信念」があるということ。

たまたま「そうした人たち」を僕が見たからでしたけれど、仮に「日本大好き」の人たちが本気で差別行為をしていたら、

さすがにそれは何かを崇拝しすぎ。引くわ…

と、心が離れていったと思っています。

だから僕らは、どんなに自分の信念と合うからと言っても、

  • 崇拝
  • 盲信
  • 陶酔
  • 狂信

してはいけません。

ある意味それは、自分の軸を委(ゆだ)ねたようなものであり、他の人を排除する動きに向かっていってしまうのですね。

右だろうが左だろうが、行き過ぎた盲信や崇拝は排他主義を生む。中立なんて立場があり得ないとは言え、あまりにも支持し過ぎるようなことはやめておこう。

感情的にならない

確かに宗教と政治には、歴史的にも繋がりがあります。

そこで感情的になってしまう人とは、上記のような「思想の過激さ」があると思っておくといいのかもしれません。

僕も勉強したての頃は(まだまだですが)、

自分と合わない人と議論してみたい

と思い、わからないなりに質問をしてみました。

しかし、ただただ、

うるせぇ!気にくわねぇだけなんだよ!邪魔すんな!

みたいな感じで噛みつかれ、全くと言っていいほど議論になりませんでした。

感情的になると人間、どうしても議論ができなくなってしまいます。

自分こそが正しい

と思い込んでしまうからですね。

この点については、僕も気をつけなければなりません。

信念を貫くことは大事ですが、それが「= 人の話を聞き入れない」ということにはなりませんからね。

それは盲信であって、なんの発展性もありません。

人の意見を受け入れられなければ、その人たちが「排外主義者」であって「自分たちの都合の悪いこと」は拒絶する、という構造になってしまいます。

でも、宗教や思想が絡んでくるのが政治だとすれば、それはある程度仕方ないのでは?

僕もそうは思います。

それでもやはり、100%感情的になっていたら、その党が仮に「独裁体制」に入った際に、支持者たちも、

いいよいいよ!もう絶対の信頼をおいているから!

となってしまい、考えることをやめてしまう恐れがあります。

多少の客観性も持っておかないと、「見張る」という感覚がなくなってしまいますからね。

これは決して悪い意味ではありません。

国民として生活がかかっているのですから、しっかりと目を光らせておくことは当然のことなのです。

今年(2025年)はいろんなことがあって、多くの若者も政治に対する関心が高まってきました。

僕も以前はリベラルな人間でしたから(今もか笑)、最初はいろんな政党や政策を見て、ある意味「推し活」みたいなところから入ってもいいのかもしれません。

それでも、自分の推すアイドルが失敗ばかりしていたら、ただ推さなければいいだけのこと。

僕/私はこんだけお金も時間も費やしてるのに、全然サービスが良くないじゃないか!全然活動せず、私腹を肥やしているだけじゃないか!

となれば、人は離れていきますからね。

政治家にも「それ」が必要。

僕らは税金を払っていますからね。

それに見合う行動、政治活動をしているのかを、しっかりと見ておくのです。

感情的になると、いずれは自分の生活が悪くなってでもその人や政党を推すようになってしまう。そうならないためにも、逐一見ておく必要がある。

おわりに

政治とは宗教的な要素を孕(はら)んでいる

この感覚ができたおかげで、いろんなことが腑に落ちました。

改めて自分の行動指針や思想を確認するとともに、狂信的にならないように気をつけていきたいと思っています。

それではまた!

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