30代教員が無理やり数学の魅力について語ります【数学を勉強する意味】

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こんにちは。

実はすずきは理系として高校3年間勉強し、浪人時代に文転したという経歴の持ち主です。

数学と英語が得意という、いわゆるありふれた典型的受験生でしたので、特に面白みもなくそのまま英語教師になるということで落ち着きました。全国の英語教師に謝れ。

さてすずきは数学が好きで好きでたまりません。得意かどうかはさておいて。

今ではあまり勉強してませんが、数I・Aに関しては大体網羅しており、II・Bも気合いさえ入れればいけます。

III・Cはちょっと時間をくだされば…なんとかいけるでしょう。

ちなみに生徒と一緒に数IIIの期末試験を受けるために、テスト期間にわざわざカフェで勉強していた変態です。

では数学を勉強するということは一体どういう意味があるのか。

話を広げて勉強や学びとはどのような効果があるのか。

様々な意見が飛び交う中、僕なりの考えを述べます。

数学を学ぶ意味

結論から言うと僕らの生きている世界では、実生活でその知識自体が活躍することはほとんどありません

数学好きの僕が言うんだから間違いありません笑。

ぶっちゃけ四則計算くらいできれば生きていけます。

微分を知らなくても生きていけます。

面積を求めることなど一生の中で数えるくらい…すらもありません。

でなければ、数学が苦手な人たちはみんなヒーヒー言って生活していることになってしまいます。

ということで結論も出たのでこれで終わりにしましょう。

それではまた!

ではなく。

一応反論させていただくのであれば、僕らが実生活で使わなくとも科学の分野では大きく貢献してきたという事実です。

物理でも電気でも建築でも「数式なしでなんとかしてみようぜ!」とはならないのは当然です。

一方で、結局いらない人にとってなにかしら不要な学問はどうしても存在してしまいます

「英語を一生使わない」と断言した人にとって、小中高の英語の時間は不要だと感じることもまた起こり得ることです。

では僕らパンピーこと一般人が、数学を学ぶことで得られるメリットとはなんでしょうか。

例を交えながら説明していきます。

必ず答えがある=楽しい?

数学の研究者にとってフェルマーの最終定理やらABC予想なんて、簡単に答えが出ないだけでなく、答えを出せたところで誰もわからないというただのマニアックな超難解でしかありません。

僕らが解く学校レベルの数学の問題は、正解にたどり着くまで様々な手法があったとしても行き着く正解は一つであることが普通です。

6÷2(1+2)のような物議を醸す問題もありますが。

僕はこの点がとても好きでした。

最後に『∴(=したがって)』の記号を書いて出した答えが合ってた時は、嬉しかったことをよく覚えています。

国語や英語の解答が曖昧な答えに見えてしまう分、数学や理科のようにビシッと答えが出る学問は魅力的でした。

計算して行く過程もある程度は決まっているので、解答方法がわかった時はアハ体験みたいに感じましたね。

「こうなるからこう」とキレイに途中式を書いて出した正解は、何か自分を認められたような気分でした。

そう言う意味では魅力的ですが、イマイチ決定打に欠けますかね。

解く過程=論理的?

よく言われるのは論理的思考能力が身につくということです。

途中式を書いたり、自分なりに証明していったりするからでしょう。

個人的には「数学が得意だからロジカルな考え方になる」とは思いません。

ある程度相関はあるそうなのですが、数学をやっていたからという理由だけで論理的な人だと言い切るのは難しそうです。

確かに問題を解く過程で順序良く正しく答えを導くことは、数学を学んでいない人にとってはなかなかできません。

数学では公式を暗記したり手を動かして何度も解くことによって道具の使い方を身につけ、その道具をうまく組み合わせて使って初めて解に至ります。

上記の内容を見る限り「こうなるからこうでしょ」という数学の解法には、確かに論理的に聞こえるようなふしがありますよね。

しかしこれらは公式を駆使したにすぎず、あとは国語力・構成力なども地味にからんできます。

また逆に解法を覚えてしまい、意外と過程を何も考えないで解に到達できてしまう時もあるので「数学=ロジカル」のイメージは偏見な気もしますね。

解くのが面白い?

数学の問題には解があり、解く過程がビシッと決まって解に到達した時にある一種の恍惚感を獲得することができるので、僕は好きです。

いわゆるクイズのようなものですが、問題に対して知識武装して速攻で答えを出すというクイズとは違い、ペンを持ってガリガリっと過程を経てから答えを出すので「変わった知識ゲーム」と思えば面白い遊びとも捉えられます。

脱出ゲームの数字だけバージョン、あるいは論理パズルみたいな。

ただやはり「学ぶ意味があるのか」と言われるとこれがまた難しい。

理系の大学に進むのであれば必要なのはわかるとしても、多くの人が学ぶべきかと言われると「面白いから学ぶ」という安易な解答では、なかなかみなさんを納得させることができません。

やはり大学受験、特に理系の専門分野に進む人だけがその知識や解法を知っていればよいということで、議論は決着してしまうのでしょうか。

客観性を得る

すずきは上述したことが自分に当てはまったこともあって、ゲーム感覚で数学をやっていたので数学が好きでした。

では結局のところ、数学を学ぶ「広い意味でのメリット」とは一体何なのでしょうか。

僕は客観性が得られたことかなと思っています。例をあげますと、

  1. リンゴが6つあって3人で分けようとなれば一人当たり2つ。
  2. x2-2x+1=0なら(x-1)2=0に変形できるからx=1だよね、そしてグラフはこうなる。

1の「算数」は数遊びで2の「数学」は高度な計算と思われがちですが、どちらも数字という言語を用いて事象を読み解くという点では小中高と一貫して変わりません。

後者のほうが圧倒的に非日常的な計算ですが、どちらも解き方さえ勉強すれば解くことができるので、問題を見た瞬間に「確かこういう解き方だよな」と一回冷静になって頭で考えます

ちなみに数学を身につけることで「問題解決能力が上がる」とか「困難な状況を乗り越えようとする精神力がつく」という人がいるんですけど、そんなこと僕は一切思いません。

どちらかといえば、問題や困難にぶちあたった時に「んーとちょっと待ってね。考えるから」って頭を使うクセがつくと思うのです。

そしていかにしてその解決策を相手に的確に伝えるかをさらに深く考えます。

  • 50人のうち10人がそう思うってことは20%が賛成だっていうこと
  • 1日5時間で一週間勉強したら35時間だから丸一日と半日くらい勉強したことになる

のように、みなさんごく普通に数字を出すことでわかりやすく事象を伝えていることが多いのです。

何かの事象に対して一度客観的に分析し、そして数字を介すことでわかりやすく伝える

こうして数字を介して与えられた情報は「データ」と呼ばれ、非常に客観性の強いものとなります。

上の2つの例をあげた時に「そうは言っても2つ目の例は日常で必要ない」というのはごもっともです。

しかし僕が伝えたいことは、感情が一切介入しないという部分です。当たり前のことなのですが。

ここが一番の魅力なんです。この点は、その人の話し方の端々にもたまに出てくると思っています。

数学的思考というより「数学を解く時みたいな客観的思考」が問題に対して冷静な分析を生むんじゃないかなと。

要は数学解いてる時の冷静さとか、頭を使って分析してる時の顔つきってかっこよくないですかってことです。(あれ?)

数学に限らず、勉強するときは当然のように客観性が必要です。

その最たるものがペーパー試験なので、僕はそのトレーニングが好きだということになりそうです。

おわりに

勉強自体に客観性というか、「黙々と考えて答えを出す」という形があって、その姿勢が生きていく上で大切なのかなと思っています。

事実に基づいて解を導くということは、理科や社会でも大切ですよね。そこに主観が入る余地はありません。

そして数学では、「数」という日常で必須レベルの言語を駆使して問題を解きます。

数学を解いた時間は客観的な考え方をした時間として蓄積され、さらにオマケで数学の知識や概念(2次方程式とか微積分とか)が得られます。

これに慣れておくことで、距離や時間、人口やお金を始めとした簡単なデータ、比率や割合や概数、確率や分布などを理解しやすくなる。

そしてその知識を会話に挟むことができてくると、客観性が増してきます。

友人と議論するときも、客観的な知識(あるいは客観性そのもの)が出るのと出ないのとでは説得力や納得感がまるで違います。

だから受験やその先の研究、専門分野で使う人は積極的に数学を勉強し、それ以外の人は客観的思考ゲームという感覚でやったらいいと思います。

僕は前者の「受験」で必須となりましたが、今でも数学を好きで学んでいてよかったと思っています。

先述したように直接的な影響ではないですが、僕の脳に少なからず客観的思考や問題に直面した時の冷静さを提供してくれていると思うからです。

今の僕のアイデンティティを形作る要因だったとすら思っています。

結局何を一番伝えたかったかというと、このブログを書いている時間が一番頭使ったということです笑。

また勉強し直して思考を整理してきます。

それではまた!

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