僕があまり学習でノートをとらなくなったわけ【やっているフリをしない】

雑談

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、僕が勉強をしているYouTubeを見た生徒さんから、

先生って全然書きとらなんですね!なんで?

と聞かれました。

僕は中高時代はたくさん書いていました。

何にせよ大学受験はペーパー試験ですので、書くスピードも求められていました。

しかし大人になるにつれて、

あのノートテイキングとは、単なる自己満足だったのだな

と思うようになりました。

当然、

  1. 知識を整理し
  2. 試験に臨むこと

正統派の勉強法ですし、ノートを取ることそれ自体を否定しているわけではありません。

今日はもうちょっと奥の、「見せかけだけの勉強」について書いていきます。

本当に大切なことは頭の中にある。それを忘れないことだ。たくさん書いてやった気にならないこと。いつでも本質を忘れないことだ。

書くことはいいのだが…

さて、僕は「書くことそれ自体」を否定しているのではありません。

先述した通り、「知識体系をまとめてテストに臨むこと」は僕もしていました。

要は、

  1. 知識をまとめる
  2. それが可視化されて頭に入りやすい

のであれば、それはそれでいいのだと思っています。

一方で、

よーし!まとめられたぞ!

と、「ノートをキレイにまとめること」で満足する人が多数います笑。

はっきり言いましょう。

それらは今の時代、AIがやってくれます。

何度も言いますが、決して否定をしているのではありません。

僕が言いたいのは、

書くことが目的になっていないか?まとめることが目的になっていないか?

ということです。

そこに時間を費やさなくても、教科書や参考書を見てみれば、すでにまとまっています。

だから今の時代では、「あえてノートをキレイにとる必要」なんてほとんどないのです。

書くとしたら、

  • 英作文
  • 数学の計算
  • 指や手の動きで覚える

といったような、実践向けのためのライティングのみが、必要とされているものなのかなぁと。

教科書に書き込むことも僕はしていましたが、今はしていません。

それをするよりも、頭の中に知識が残っているほうが大事だからです。

ノートをキレイにまとめることで満足している人は要注意です。

参考程度にしてもらいたいのですが、僕はほとんど書くことはありませんね。

書くこと自体は否定しない。しかし、体系立ててノートをまとめているだけだったらやめておこう。ただの自己満足になりかねない。

自己満足にならないこと

こと言語学習についていえば、書けるということそれ自体は大切なことですが、たとえばスペリングにおいても、

「頭の中にある知識を引き出す」

ということができれば、なんの問題もありません。

だから再三注意したことは、「ノートを取ること」が目的となっていることであったり、

  1. 実際は何も覚えていないのに
  2. キレイなノートだけが残ったりしている

という状態です。

これはほとんど意味がない

と言ってもいいでしょう。

僕が学生時代、授業中に無心でノートをとっていた時も、同じ虚無感を覚えていました。

その後、それらを見返すことは確かに意味があるとはいえ、

大体は教科書に載っていることなんだよなぁ…

と、改めて自分が丁寧にとったノートを見返して、そう思いましたね。

それだったら、

  • 授業中に議論をしたり
  • 生徒の意見を聞いたり

していたほうが、よっぽど有意義なんじゃないかと思ったくらいです。

何かを忘れないように書き留めることは大事なことですが、自己満足のためにキレイなノートを作っていたとしたら、それは、

意味のない授業時間だった

と言えるでしょう。

「書くこと」をあまりにも正義として捉えている人は、

  • ちゃんと内容が頭に入っているか
  • 書いていたことでしっかりと覚えることができているか

を認識することです。

「空いた時間を埋めるだけの動作」としての “書く” という行為は、逆効果もあるということを知っておくこと。

特に「自己満足になっている時間」だとしたら、もう一度考え直すことです。

それだったら、赤シートでもなんでも使っていいので、「頭に入れること」を意識することですね。

ちなみに今僕は、英語のテキストが一冊も家にありません。

必要な表現は、

  • YouTube上で表現を得たり
  • 生徒さんから教えてもらったり

すればいいだけのこと。

改めてノートを作る時間がもったいないですし、それは他の言語学習においても一緒です。

大事なのはできるようになるかどうかであり、キレイにまとめられるかどうかではないのだということなのですね。

ノートをキレイにとろうとする人ほど、自己満足に陥りやすい。勉強した後に何が残っていてほしいのかを、しっかりと考えておこう。

本当に大切なこと

「書くかどうか問題」を今日は取り上げましたが、それくらい「書くことで満足している人」とは多いものです。

先ほども少し触れましたが、特に言語学習においては「アウトプットできるかどうか」というところが大事です。

もちろん、

  • 論文を読んだり
  • 音声を聞き取れたり

というインプットができることもまた一つのゴールですが、”最終的なゴール” には必ずアウトプットが絡(から)んできます。

勉強をしていた時も、当然のことながら、

キレイなノート提出をできることが、大学受験を制することだ

とは思いませんでした。

いかに白紙の状態で出された「問題」に迅速に対応し、反射のように回答ができるのか。

そのような、ちょっとしたスポーツ要素もあったと思っています。

「キレイなノート作成」を発端に記事を書きましたが、これは一事が万事だと思っているくらい、根が深い問題でもあります。

本当に大切なことは何なのか?

この「核心」を突けないままでいる人は、他のものごとにおいても、

  • 数字だけを見たり
  • 費やした時間だけを見たり
  • 形や体裁だけを気にしたり

してしまいます。

どれも繋がっているのですね。

僕はノートに何も書き込まない

という言葉尻をとって、

はいはい。そうやって「僕はなんでもできる」アピールね

と思われる人もいます。

でも実は、「書く/書かない」は大した問題ではないということ。

先述した通り、

書くことで自己満足に陥っているのであれば、それはいけないよ

というだけの話です。

あくまで切り口に過ぎず、ものごとの本質を押さえていけば、

確かに書いて覚えられるのならばそれでいいし、そこに時間を費やしておきながらも、自己満足で終わっていたら意味がないか

と思えるはずです。

だから僕は、「行為に意味が伴っていれば問題がない」というスタンスです。

しかしそれは、本人にしかわからない世界でもあります。

先日、生徒さんに(いい意味で)指摘された時は、

書くことで覚えられるとは思わないから

という理由がはっきりとあったのです。

そこは人それぞれでいい。

何も意味を持たせず、妥協や自己満足でやるのならば意味がない。

  • 自炊も
  • 勉強も
  • 運動も
  • オシャレも

ちゃんと考えた上で、自分が選択をしているのかということですね。

ノートをキレイにまとめる云々の話は、実は他のことにも通ずる場面がある。本質を見抜けないでいると、ずっとムダなことに時間を費やしてしまうのだ。

おわりに

そういえば僕はノートを取らなくなったなぁ

と思いました。

本当に大事なことや、忘れてはいけないことであれば、すぐさまスマホのメモ帳に記載しますが、ノートは一冊(ライティング用)くらいしかありませんし、ほぼ使っていません。

使う必要がある人は使えばいいですし、僕が言っていることだって状況によって変わってきます。

それぞれが本質を見抜いて、自分に必要なことを選択していきましょう。

それではまた!

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