与えたものは必ず伝わっているからまた与えていこう【最高の瞬間】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、もともと勤務していた高校の文化祭を見に、埼玉から神奈川の高校まで出向きました。

文化祭は、大学時代の時に始めたダンスにも大きく関わることから、

  • 大学時代でも
  • 教員時代でも

ともに僕にとって、重要な行事でした。

今回は生徒たちのパフォーマンスを見に行ったのですが、彼らはとてもよくやっていて、結果的には僕の前で泣き崩れてしまいました。

先生を辞めた後も、彼らと関わることができてよかったなと思っています。

今日は「与えたことは必ず形として現れる」ということについて書いていきます。

自分が与えたことは必ず生徒に伝わっている。また変わらずに与えていこう。

お金ではない価値を感じる

彼らが踊る前、

カツを入れてほしい!

というので、

よしきた!

と、背中をバチンと叩いてあげました。

舞台では彼らは本当に楽しく、そして気持ちよくダンスをしていました。

ちょっとウルっときてしまいましたね泣。

彼らの舞台の2曲目では、僕らが2年前の最初の文化祭で踊った曲を使ってくれて、

おおおおお

と思いましたね。(粋)

彼らの想いを受け取ることもできて、成長を感じた時間となりました。

舞台から降りてきた生徒たちは、やり切った顔をしていて、僕も「よかったよ!」と褒めてあげました。

教育に携わって感じていることは、このブログで書いている通り、実はとても複雑なものです。

  • 部活には反対だけど
  • 青春という意味では必要だし
  • 勉強よりも大事なものはあるけれど
  • 実際に英語の力がなければ話にならない

僕は基本的に部活動は「やりがい搾取」だと思っていますが、アツい側面があることも知っています。

教育とは、

  • 勉強
  • 生き方
  • アツい気持ち

など、本当に多角的な側面から行われるべきものであり、これは先生その人自身が持っておくべきものでもあります。

誰もが僕みたいな「熱血漢」になることはできませんが笑、一方でそうした側面を持っておくことは、教育において一番大切な部分でもあると、僕は心から思っています。

いろんなことを通して、彼らとともに生き、自分も成長しながら、経験を伝えてゆくこと。

僕は彼らから多く受け取ったものもありますし、教育に携わっていますと、いつも「与えた以上の価値」をもらっていますね。

お金には変えられないような、そんな価値を感じるような経験をいくつもしてきた。今回もまた、現場を離れた僕に、大きなバックがあったのだ。

泣いてくれる人がいる

さて、舞台が終わった後ですが、彼らは泣いてしまいました。

せいじをいざ前にすると、涙が出てきちゃうんだよね

と言って泣いていましたので、「よしよし。よく頑張った」と伝えてあげました。

実はこの言葉は、多くの生徒からもらってきた言葉でもありました。

僕はこんなスカした野郎ですし笑、いつでも適当なものです。

また、

自分の人生くらい、自分で決めろ

と、忖度もなくハッキリと生徒に話をし、そそくさと自己研鑽に勤(いそ)しみます。

こんな僕がなぜそんなことを言われるのかと言えば、(たぶんですが)めちゃくちゃアツいからだと思います笑。

先生とは、熱心に教えることも大事ですが、それ以上に「自分が頑張っていること」も大事です。

その上で、一所懸命頑張る子どもたちを応援しますと、

この人は自分も頑張っているし、ちゃんと私たちのことも見てくれている

と感じてくれます。

僕はあまり生徒の成長に興味はありませんが(おい)、成長させるために毎回全力を尽くすことだけは忘れないようにしています。(というよりやってしまう)

生徒の前では、決してツラい姿や大変な姿は見せない

別にモットーではなかったのですが、教員時代、あまりにも僕が部活動や学び、相談役にコミットしていたものですから、

この人は、一体どれだけの時間を割いてくれているのだろう?

ということが、まだ若い生徒たちにもちゃんと伝わっていたのだと思います。

もちろん、いつも言う通り「自己犠牲で」とか「身を粉にして」とか、そういった “キレイごと” は好きではありません。

  1. 自分の人生に責任を持って
  2. 僕も生き生きと人生を送っているからこそ

彼らも「余裕のある先生だ」という認識を持ってくれます。

そうやっていつでも生徒のために時間を空けておくこと。

コミットし、彼らを見守ってあげること。

だから、

よくやり切ったね。お疲れ様

と僕が前に立つと、彼らは「ありがとうございました」と言って泣いてくれるのですね。

自分のできる範囲で最大限に生徒たちと関わっていると、彼らは僕を目の前にして泣いてくれるのだ。

実は伝わっている

僕はとても驚きました。

まさか泣かれるなんて

と。

恩着せがましく言うつもりはないですし、ご理解していただいているとは思いますが、僕は、

  • 世界一周中に文化祭をオンラインで視聴
  • 簡単なスナック菓子を買って行ってあげる
  • 帰国後に彼らのために神奈川でフリを教える
  • 相談や悩みがあればLINE電話で話を聞いてあげる

といった、細かいことをしてきました。

でもこれは、

なんで泣いてもらえたのだろう?

と想いを巡らせて、初めて気がついたことでした。

それくらい、息をするようにやっていたのです。

これは宿命というのか性格というのかわからないのですが、僕はそういうことを「してしまう」人間なんですよね。

もちろん、彼らの涙は「彼ら自身が頑張ったからこそ」のものだとも思っています。

それくらい、彼らは10代ながら迷走していたのは間違いありませんでした。

僕が先生を辞めて学校を去ってしまったため、ダンスを続けるかどうか悩んでいましたし、顧問ともうまくいっていませんでした。

実は、最後の文化祭も「出ない」と聞かされていました。

世界一周をしている途中でも電話したりと、彼らの悩みをいろんな場面で聞いていました。

そうした、

  • 彼らが悩みを乗り越えたこと
  • 僕の寄り添う姿勢(ちょっとだけ)があったこと

が、いろいろと混ざった結果だったのだとは思っています。

とはいえ、僕が伝えてきたことは、少なからず彼らに届き、根を下ろしていたのだとは思いました。

  1. 別に見返りを期待していたわけでもなければ
  2. 「見返り」ありきで悩みを聞いたりしていたわけでも

ありませんでした。

それでも、「与えてきた時間/こと」が影響を与えていたのだと、改めて実感したものです。

教育に限らず「僕が息をするようにやっていること」には、信じられないくらい「感謝」されていることがあります。

数年前には考えられなかったことです。

カッコつけて言うわけではありませんが、僕はこれらのバックに「お金以上の価値」を感じています。

もう一心不乱に「人のために生きること(ただし自己犠牲ではない)」を続けていますと、こういうことが起こります。

個人レベルの小さいことかもしれませんが、こうした積み重ねが、ここ数年の僕の人生を輝かせてくれました。

まさか…でも伝わっていたんだな

見返りを求めずに与えますと、そのバックはものすごいものです。

それでも僕は、

そんなことはいいよ。また頑張っていこうや

と、さらっと感謝を受け取って、また新たな場所で種を撒くのです。

誰かのために一所懸命与えたことは、必ず伝わっている。それはものすごく大きくなって返ってくるのだ。

おわりに

まさかこんなに感動するとはなぁ

先生を辞めても、やはり学校現場は僕にとって特別な場所です。

僕が世界を回っている間も、彼らが頑張ってくれていたからこそ、今回のパフォーマンスを見ることができました。

改めて彼らに感謝しつつ、僕は僕でまた、気持ちを新たに頑張っていきますね。

それではまた!

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