こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、細川バレンタインさんのことを記事にしました。
また彼の動画を少し見て、「なるほど」と感じましたので以下に引用します。
彼が言うには(「ナオキマンの都市伝説ワイドショー」一部抜粋)、
という趣旨で話し、
と話していました。
非常に興味深いですよね。
今日は再び「武士道」について書いていきます。
イエスマンになっていないか?

僕が先生(公務員)として働いていた時は、上の人たちは相当やりにくかったに違いありません笑。
あまり言うことも聞きませんでしたし(それはそれで問題)、川崎のヤンキー気質が上回ってしまい、
大学院の経験まで持ち出しては、噛みついていたものです。
僕らが忘れてしまった「武士道」とは実は意外にも、この感覚に近いのかなとも思っています。
- 礼節
- 主従関係
- リスペクト
も、もちろん大切ですし「なんでもかんでも噛み付くやつ」であればいいというわけでもありません。
ただ、そこに正当な理由や意味もないのに、
とか、
みたいな流れに、嫌気が差したのです。
噛みつきまくることもよくありませんが、だったら逆に「イエス」しか言えないこともよくありませんよね。
それは「自分がないこと」でもありますし、そこに敬意のある関係があるとは思えません。
成長しないただの流れ作業であれば会議なんてしなくていいわけですし、教育も画一化していけばいいだけですからね。
でも実際の現場はそうではない。
みんなで議論し、年齢も立場も関係なく「いい方向」を目指してゆくこと。
これが大事だと思うのです。
もしあなたが「イエス」ばかりを言っているようでしたら、注意が必要です。
そこには「なぜ?」が介在しておらず、思考停止になってただ頷くだけのマシーンとなっているから。
そうやって、他人や他社、他国の言いなりになってきたから。
そうなってしまいますと、
- 自分も
- その組織も
成長できませんからね。
自分で判断し、違和感を覚えたら指摘したり変えたりする。
これが「道」だとは言いませんが、イエスマンになっている人に武士道があるとは思えません。
「なんで?」と疑問を投げかける

そこに「なぜ?/なんで?」が介在していなければ、疑問を持たないまま一生を過ごすことになってしまいます。
細川さんがおっしゃるように、
という問いかけができないままでいますと、「道」は途切れてしまいます。
僕のブログもそうですし英語やダンスもそうですが、そこに「もっともらしい理由」なんてなくてもいいから、自分なりの理由をつけておくことです。
もちろん、
などでもいいのだと思います。
ただ、会社や組織で働く際や、友人たちと何かをするときに、
という感覚が続き過ぎますと「なぜ?」がなくなってきます。(たまにはそういうノリも大事ですが)
例えば、保険や投資もそうですね。
と、適当な理由(ともならない理由)をつけてやっていることがあるなら、やらないほうがいいです。
結局は「他人」に自分の人生を委(ゆだ)ねているからです。
理由を考えて、自分で行動していきましょう。
これができない人が、「武士道」を語ることはできないと思っています。
僕が世界一周をする時も、散々言われました。
なぜ「世界を回ったことのない人たち」から、そんなことを言われなければならないのでしょうか。
結果論ではありますが、「見たことのない景色を見たいから」という理由でやってみた世界一周は、かけがえのない思い出/経験となりました。
いつでも「自分で」判断するのです。
そこに「なぜ?」という問いを、必ず入れてみましょう。
「道」を突き詰めてゆくのです。
道を極めてゆく

日本の武士道が宗教ではなく「道」であることは、非常に興味深いですよね。
自分でその「道」を、
- 追求し
- 模索し
- 極めてゆくこと
これが「道」であるからこそ、
と言われているわけですね。
確かに武士道にも、自分なりの信念があっていいのかなとは思っています。
ある程度の筋道はありますが、あくまで「道」ですから、
- 極めて
- 自分なりの答えを出す
のは、道を行く者としては正しい姿勢です。
一方で、
と、日本の伝統や文化、昔からある慣習や礼節を蔑(ないがし)ろにした上で語っている武士道とは、道というよりは「自分勝手な意見」でしかありません。
- 日本にいるからこそ
- 日本人であるからこそ
わかることがあるわけでして。
逆に言えば僕らも、外国の方々が持っている伝統や文化については、頭では理解できたとしても、心で会得するには相当な時間(数十年単位)を要するはずです。
「不可能ではない」と言いたいですが、それぞれにはアイデンティティ(自己同一性)があって、日本人を日本人たらしめるのは武士道や「道の精神」だと言っても過言ではありません。
だからこそ、
- 剣道
- 柔道
- 華道
- 茶道
などの「道(みち)」があって、そこには必ずと言っていいほど礼や忠義が存在しています。
他人や外国の方から「こうしろ」と言われてやっているようなことなんて、道でもなんでもありません。
だって、自分で突き詰めていないのですから。
「型(かた)」はありますが、そのベースを土台にして、
を模索してゆくこと。
このブログを通しても僕は4年間(2025年現在)、常に自分に語り続けてきました。
それでもまだまだ、
と思いながらも、その時に感じた「最善の意見」を書くようにしています。
多少、時間が経って意見がズレることもありますが、その時なりに考えて出している意見であることは間違いありません。
ずっと歩き続け、自分の目指す「極み」へと向かっていきましょう。
そこ道にこそ趣きがありますし、極めようとするからこそ謙虚にもなってゆくのだと思っています。
おわりに
確かにな、と感じました。
細川さんは言動から批判に遭うこともよくありますが、己の信念を貫いているかっこいい人だとも思っています。
賛同できる部分は賛同し、違うなと思ったところは自分なりに消化して、糧にすればいいだけのこと。
「道」もそうですし世の中、答えはありませんからね。
極めていきましょう。
それではまた!
