こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
本日も2日連続で友人に会うこととなりました。
大学の学部時代にお世話になった方で、友人というか先輩というかソウルメイトというか笑。
英語教育から日本の教育まで、様々なことについて語りました。
自分の教育に対しての考えを述べるほど、話にめちゃくちゃ熱を帯びていたことが分かりました。
そうなんです。
ずっとみなさんには隠し通していましたが、僕は教育が好きで好きでたまらないんですよね。謝っておきます。
話せば話すほど、
「あぁ、俺ってやっぱり教育に命を捧げる人間なんだな」
って思ってしまったのです。
ただ数年後に主戦場が変わるかも知れませんが、ここは切っても切れないクサレ縁です。
今日話していて感じたことを、お伝えしていきます。
教師を目指したきっかけ
僕が中学1年生の頃、担任を持って下さっていた「国語の先生」がいました。
彼女は僕のことを「すずきの頭文字」をとって「す」と呼んでくれていまして笑、実際ちょっと「好き」という感情すら抱いておりました。
いつも気にかけてくださり、「ひ弱でメガネのガリ勉」を1人の生徒として愛してくれました。
国語の時間に、一所懸命「硬筆」(ペン字)の練習に取り組んでいたことを目につけて下さり、「市の大会に出てみないか?」と言われた時は、死ぬほど嬉しかったですね。
中1の時は初出場で銅賞に入り、中2と中3では2年連続で金賞をいただいたくらい、大変お世話になりました。
何度も添削してくれたことを、今でも覚えています。
おかげさまで字を書くことに困らなくなりました。
このあたりから「あぁ、あんな先生になりたいな」と、漠然と思い始めていました。
「国語の先生に、俺はなる!」というよりは数学がものすごく好きだったのですけれど、「何かしらの形で教師になるんだろうな」とは思っていました。
つまり「先生になりたい」という夢は、中学1年生の頃で既にほぼ確定していたというわけです笑。
そこそこ成績も良かったので、テスト前は友人から頼られることも多く、人より先に目一杯予習をしておいては、勉強を教えてあげることが楽しいと感じるようになりました。
それが「役に立っている」という実感を伴うものですから、麻薬のようにやめられなくなったわけです笑。
これが僕の「人に何かを教える」という始まりでした。
「教えることの自己満足」から「成長を見守る姿勢」へ
人は誰しも頼られることを好みますし、嫌うことはあまりないでしょう。
「頼られること」はやっぱり嬉しいことですし、生きがいのひとつととらえても良いです。
早速バイトとして「塾講師」を始めた大学生の僕は、
「教えることで頼られる俺、いいじゃん。自分の得意な力を発揮できてる!」
と、勘違いしていました。
「すずきせんせー!」と呼ばれて頼りにされることは、当時はただ僕自身が嬉しいだけでしたし、ある意味「自分がデキる人間であること」を証明してもらっていたように感じていただけでした。
しかし塾講師を長く勤めていますと、生徒と徐々に仲良くなることで学校での悩みの相談に乗ることが増えてきました。
先に申し上げてしまいますが、これが僕の教育観を変えた出来事だったと思います。
「教育」というものは当然ですが、
- 別に生徒が先生を褒めちぎったり持ち上げたり、
- あるいはそれに先生たちが浸ること
ではありません。
まだ知識が足りなくて分からない生徒たちに(偉そうに)教え諭すことは、そこらへんの学生でも十分でしょう。
塾講師の授業が途中から「悩み相談室」になってしまいましたが笑、僕はそこで教科教育に限らず、人生の先を示してあげるからこそ「先生」なのではないかと思いました。
それを実現させることができるのが現場での教育であり、自分の目指すところなのだと確信したのです。
とはいえ、着任した最初の頃はまだまだ若さがぬぐい切れず、教科教育ですらままならない状態でした。
だんだんとではありますが、塾講師時代に経験していた「悩み相談」が生徒指導に効き始め、高校生にもわずかながら「生き方」を示すことができるようになりました。
先生も成長する生き物です。
すると、「わぁ!先生すごーい!」という言葉が、不要だと思うようになりました。
「それは教育において重要ではない。僕らは正義のヒーローではない」と。
- 生徒たちが自分の足で立って自分の人生としっかり向き合えるよう、
- 高校生活という舞台を主役が全力で楽しく過ごせるよう、
- 先生たちが黒子役でサポートしまくること。
生徒が何かしらを掴み取り、成長していく姿こそが全てであり、それは教科教育でも人生教育においても同じことで、これこそが僕の使命だと思いました。
上から目線の「教えてやるよ」という態度よりも、寄り添って生徒自身が頑張れる力を伸ばすこと。
これが僕の仕事だと思ったのです。
生徒とのやりとりこそ教育
「教育観」とは、それぞれの教師が持つ独特の価値観だと思っています。
僕の教育観も、紆余曲折ありました。
- 現場から
- 本から
- メディアから
と、様々なソースからインプットして、今の僕の「教育観」があります。
ただし、
- 教育そのものはとても抽象的であり、
- 正解もなければ優劣もなく、
- 時代によって感覚も変われば、
- 個人によってニーズも違います。
僕が経験の上で一番重視していることは、生徒との対話です。
英語という教科柄でもありますが、生徒との対話では質問をして言葉を言わせることに焦点を当てています。
教師はどうしてもしゃべり散らかしてしまう生き物ですので、なかなか生徒にターンを与えられないことが多々あります笑。
そこをなんとか我慢して、生徒に「君はどう思う?」と尋ねていくことはとても楽しいものです。
様々なリアクションがあって、たまに驚かされることもあります。
別に生徒の答えに期待をしているわけでもなく、模範解答がほしいわけでもありません。
それでも対話することは、
- 信頼関係の構築
- 相手の情報を収集する
など、多くのメリットがあるアクションだと思っています。
さらに、生徒たちの思考を吐き出させることは、彼らにとっても思考整理の機会になります。
僕が学生だった頃、先生と深い話をしたことは1ミリもありませんでした。
- ちょっとした日常会話でもいいし、
- 悩み相談でもいいし、
- くだらないギャグでもいいし、
- アニメや漫画についてでもいい。
「対話をしようと試みる」ということは、すなわち意思疎通を図ることに他なりませんから。
これを怠ってしまいますと、生徒との関係はずっと深まらないままですし、お互いにとっても学校が楽しくなりません。
対話を積極的に行なっていけば、生徒たちにも「考えるクセ」や「大人に向かって発信するクセ」がつきます。
「先生と生徒」という関係上、やはり先生たちからアタックしていくほうが有効な場合が多いです。
「与えるだけ」と「受けるだけ」の一方通行の関係を良しとすることは、教育ではないと思っています。
そのような関係なら、学生のバイトか予備校の授業で十分かと。
もちろん教育において授業は基本ですけれど、授業の先にいる生徒たちが彼らのレンズを通してどのように僕ら教師を見ているかを、常に考えておかなければなりません。
対話の際は、
- 生徒が嫌がっていないか?
- 心地よく会話できていないか?
- ツッコミすぎた内容ではないか?
と「探りながら話す」のは難しいですが、とても勉強になります。
生徒が自身の気持ちや考えを表現する場を提供し、その声をしっかりと受け止めてくれる人がいるということが、教育の本質だと思います。
それがない教育現場は、全くと言っていいほど想像ができないんですよね。
シンプルに「楽しくない」からです。
おわりに
教育に関する記事は尽きません。
僕の教育の考え方は、一貫していますけどね笑。
とにかく生徒とのやりとりの場が楽しいのです。(たまに鬱陶しいですが笑)
「先生と生徒」では、確かにルールや上下関係も確かに大切ですが、僕の中ではそうした形式的なものの優先度が、さらに低くなっています笑。
教育は、
- 「押さえつけること」
- 「言うことを聞かせること」
だとは思わないからです。
実際、ドンパチとやり合った先生と生徒は、その後一切話ができていません。
子どもたちのほうが、心を閉ざしてしまうからですね。
すると、生徒との「対話」がなくなってしまいます。それは教育として「破綻」していることを意味します。
だから「長くて継続的な関係」を築くためには、まずは「対話」を第一優先として掲げるべきです。
教育については、何度記事を書いても尽きないし、飽きないし、深すぎます。
また教育を考えるいいきっかけになりました。
書籍を読んで、勉強し直してきます。精進。
それではまた!
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