こんにちは。
僕が先生になろうと思ったきっかけは、実は単純明快でもう一度青春を送りたいというその気持ちだけで、それが起爆剤でした。
なぜなら中高とガリガリ勉強ばかりしてきた僕にとって、恋愛や青春は何光年も遠い憧れだったからです。
もちろん高校時代を思い返せば、熱くなれた体育祭やみんなで打ち上げしたりカラオケに行ったりしたことなど、良い思い出ばかりです。
少し大人になった僕が、
「高校生の生活に、少しでも感動や青春というスパイスを加える手助けができたらなぁ。なんなら僕自身が青春感じちゃったりして?笑」
と思ったわけです。
しかしそんな生徒たちの生活はいつでも輝かしくて眩しいものとは限りません。いつでも彼らは悩みとともに過ごしています。
悩める高校生が「先生相談なんですが…」と来ますと、先生誰しも頼られるのは嬉しいのですが、最適な答えを提供するのは不可能に近いと思っています。
悩みは人それぞれですからね。
なんなら30超えたおっさんが、適切な答えを持っているわけがありません笑。
そんな高校生たちを見てきた教師として、深く考えさせられる瞬間があります。
取り留めもない文章になりますが、ご一読いただければ幸いです。
先生として「存在」する
部活動に関する議論は、賛否が分かれているように難しい領域だと思っています。
僕はたまたま「ダンス」という居場所があったおかげで指導者としてやり切ることができましたが、これは顧問の先生からしても当たり外れがあるので、実際は運次第です。
その是非はまた別の記事で。
僕がダンス部顧問をしていると、とある部員が辞めてしまいそうになったことがありました(結果やめてしまいました)。
その際に、その辞めていく後輩を可愛がっていた先輩生徒が、泣きながら僕のほうにきました。
「私、どうすればいいんですか?
あの子がやめちゃったら、先輩としてどうやっていけばいいのかわからないんです!」
とすすり泣きながら僕のところにきました。
正直、なんて声をかけてあげたらいいんだろう、僕には何ができるんだろうと思い、呆然と立ち尽くしてしまいました。
ただ、じっと聞いてあげることしかできませんでした。
少し待った後、こう言いました。
「先生は、ずっといる。君たちの後ろには、先生がずっといる。だから大丈夫だよ」
自分でもよく意味が分からなかったですし、残念ながら生徒は泣きじゃくったままでした。
結果、何も解決していませんでした。
でもその時は、とにかく明日も明後日もまだ自分がいるから安心しろって言いたかったんですよね。
生徒たちの感じ方って、今の僕らの感じ方の何倍も敏感なんですよね。
僕も忘れてしまっていましたが、あの時は全てが学校の中で完結していて、そこに全てを委ねていました。
それくらい、気持ちの乱高下がすごかったですよね。
だから大人である僕ができることは、ただ先生としてと動揺せずにじっとそこに存在することだけだと思ったのです。
先生のできることなんてそんなもんです。たかが知れています。
でも、ただそういう存在であること。そこにしっかりといてあげること。
これが生徒の青春をサポートするための、生徒が安心して青春を謳歌するための、大きな役割だと思うんですよね。
生徒はただただ自分で、そのやきもきする気持ちを消化していくしか術はありません。
その消化する余裕を作ってあげられるように、下支えしていくのが先生たちの役割です。
悩みを解決しようとあれこれ言葉を考えるよりも、頼られる大人としてあり続けるために日々勉強して成長して大きい存在でいることが、一歩先を行く先生たちのあるべき姿なのかなって思いました。
経験を伝える
先生はお悩み相談所のスタッフではありませんが、それでも生徒は相談に来ます。
つい先日、体が追いつかなくてドクターストップをかけれられた生徒がダンス部の活動に来まして、部活後に相談(というかお伺い)にやってきました。
「みんなのダンスを見たはいいんですけど、動けなかった自分がすごく悔しくて。
当分の間、いろいろ考えたいので部活を休もうと思います。」
と僕に言いました。
僕は「いいんじゃないかな」と返しました。
ただ、その生徒の絶えることのないダンスへの闘志を知っていましたので、こう伝えてみることにしました。
「君はまた、成長して戻ってくることができるはず。
体を治すにはもう時間が解決するしかないっていう答えが出ている。
それを受け入れた上で、ダンスの練習ができない時間をどう過ごすかを考えなさい。
そうして考えて過ごした時間は、必ずダンスに返ってきていい影響を与える。その時間がまた、君のダンスを成長させるんだよ」
実はこの内容は、僕がアキレス腱を断裂した時の思いそのまんまなんですよね。
自分もその経験をしているからこそ「わかるよ、その気持ち」と言うことができました。
しかし当の本人からしたら、青春という3年間の中の長い1週間、あるいは1ヶ月になるかもしれないのですから、先生の昔の経験談や共感なんかどうでもいいと思っていたかもしれません。
ただ僕ができたことは、
- 先生は君の帰りを待っているということ
- 「時間が解決するものだ」という自分の経験
- ダンスができない時間をどう過ごすか
というようなことを、提示してあげることくらいでした。
大切なのは「大人である自分が、今ならどう考えるか」ということを伝えることなんじゃないかなと。
先生も同じような悩みがあったけど、人生長いんだから大したことないよって。
その時は辛いという事実は変えられませんけど「あれ?意外と大した悩みではないんじゃ…」と気づかせることもまた、いいことなのかもしれません。
生徒に共感することも大事ですが、時に客観性を持たせて違う視点を提供してあげるのも良い手法だと思います。
結局、話している僕のほうがだんだん熱くなってきて、泣いちゃいそうになったんですけどね笑。
アオハルだなぁなんて思いましたし、やっぱり先生って悪くないなって思ってしまうんですよね。
生徒の青春の1ページにしっかりと刻まれてしまうんですから、先生の責任は重大ですね。
生徒本位にする
生徒の悩みは尽きませんが、話を聞いてあげることは頑張れば誰にでもできることです。
テクニックやスキルは置いておいて。
僕は20代の頃、教室で生徒と3時間くらいお悩み相談したこともありますし、大変な仕事だなとは思いつつも、それが先生としてあるべき仕事なのかなと思ったりもします(それが正しいかはわかりません)。
そんな若い頃の僕より、今の方が圧倒的に落ち着いていて知見も広がっている。
人の話を聞く余裕が出て来たなと感じています。
特に話の端々に「あなたの人生なんだから、決めるのはあなた以外誰もいない」と生徒に伝えることが多いです。
先生でも保護者でもなく、他ならぬ生徒自身が敷かれたレールの上を歩くのではなくて自分でレールを敷いて進んでいくのだということを、保護者の前でもきちんとお伝えします。
生徒の悩みとは尽きないものであり、最適解はありません。
聞いてほしいだけの生徒もいれば、なんとなく大人の出してくれた解決策を無理やりベストアンサーにして安心しようとする生徒もいます。
僕ら教師ができることは、どっしりと最後の砦として構えてあげること。
あとは生徒に全て委ねることしかないのではないかと思っています。
無責任のように見えますが、生徒の人生を未来を、知ったように決めてしまうほうがよっぽど無責任だと、僕は思います。
生徒だって自分の頭で考え抜き、悩みを解決できる力を持っています。
少し手を差し伸べるくらいで十分なのです。
最後に納得するのは自分であり、納得させるのもまた自分なのですから。
おわりに
生徒の話になると熱くなってしまうのですが、これは大人になっても当てはまることなのかなと思います。
自分の人生は自分で選んで自分で進んでいくしかありません。
生徒は未熟だと言いますけれど、大の大人だって悩むし答えが欲しくなります。
生徒は僕ら大人の映し鏡なのかなとすら感じる日々です。
悩んでいる生徒に考えさせられるという逆転現象が起きるのもまた、先生業で得られる大きな経験なのかもしれませんね。
そしてその大人の悩みの答えを得るためには、試行錯誤していくしかないのかなというのが僕なりの答えですかね。
生徒と違って、ましてや先生である僕には頼もしい存在がいません。
どうしたらいいんだよって思う日々です。
だから先人たちから学ぶしかないのかなと。それが「僕ら大人」の後ろ盾になると思うのです。
生徒たちに「自分の人生はあぁでこうで…」と僕自身が言えるためにも、自分の人生に責任を持ち、たくさん動いて当たって砕けて、考えて悩んで、戦って進んでいきたいんですよね。
学んで試して、この時代を手探りでもいいから納得できる答えを見つけていく。
これは生徒も先生も一緒なのかもしれません。
でもきっとその経験が僕を強くし、生徒を導く力になっていくのでしょう。
僕もまだまだ勉強を頑張らないといけませんね。
それではまた!
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