その国の人々の生き方を考えてみる【自分のものさしで測らないこと】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

ベトナムにきた時に、

ハノイは大都会なのだ

と思っていましたら、予約したホスティルがまさかの路地裏のところで、

こ、こんなところで生活している人がいるのか?!

と驚きました。

一方で川を渡って東に行けば、一緒のハノイのはずなのにとても落ち着いており、道は綺麗で静かという状況でした。

この人たちは、何を考えて生きているのだろう?

そんな風に思った僕は、今一度その国に根付く人々について思いをめぐらせてみました。

今日は「その国の人の幸せや生き方」について書いていきます。

自分が思い描いていた幸せは、あくまで自分のものでしかない。彼らの生き方をじっくり観察してみよう。

自分の国が正解とは限らない

日本にいますと、

なんてここは素晴らしいのだろう

と思っていたものでしたが、他国を見れば見るほど「その違い」に舌を巻きます。

ベトナムだと「スクーター」が当たり前であり、信号が青になればマリオカートよろしく一斉にみんな走り出します。

その光景は日本では到底見ることのできない世界であり、可愛いお姉さんも「ガッツリヘルメットをかぶってガニ股」で出勤します笑。

この光景を見た時に、嘘偽りなく言うのであれば、僕の頭に浮かんできた言葉は、

彼らは幸せなのだろうか?

という疑問でした。

これは彼らにとっての「日常」であり、なんの疑問もなく生活しているうちの一部です。

しかしバスを待っている間に彼らの顔つきを見ていますと、やはりなんだか幸せそうな感じもしました。

待てよ。僕が思っていた「幸せ」って、日本の基準なのかも

逆にベトナムの人が日本の通勤ラッシュを見た時に、果たして彼らは何を思うでしょうか。

え?これが通勤?!こんなの笑っちゃうよ!

と思う人がいてもおかしくないということです。

つまり僕は、「自分の知っているものさし」だけで世界を判断しようとしていただけだったのです。

日本はクリーンで清潔、何もかもきちんとしていてそれが当たり前です。

ただそれが正解かと言われれば、

  • 変な慣習
  • 暗黙のルール

などもはびこっています。

僕はその価値観を探るために、日本を飛び出したのでした。

人によってその国が心地よく感じる人もいれば、違和感を感じる人もいます。

あとは自分が、各国に対してどんな感情を抱き、自分に一番フィットするところはどこなのか。

そう考えていくことが大切であり、

全て自国が正しい

と思っていては、それは視野の狭い感覚なのです。

他国にいると、自分の国の価値観で測ることのできない世界が広がっていた。慣れ切っていた自国の文化や慣習は、正解ではないこともあるのだ。

その国、その人なりの幸せ

一方で、自国の文化や慣習に対する疑問を持つ人は、その国を飛び出していくのだと思います。

ただ、多くの人がベトナムで暮らしているように(暮らさざるを得ないのかは分かりませんが)、その人たちなりの「慣れ切った生活」も存在します。

僕ら日本人が他国(特に日本より発展の遅れている国)の様子を見れば、

こんな生活できるわけがない!

そう思う人が大半だと思います。

それは「日本の基準」が体に染み付いているからです。

彼らからすれば、今生きている時間が「日常」なのであり、日本の価値観とは大きくかけ離れています。

僕が街を歩いていて思うことは、

その人たちが幸せに生きているか

という点でした。

ただ、その表情を見ているだけでは、彼らが「本当に思っていること」を突き詰めることはできませんでした。

僕らは「すでに自分が持っている偏見」で物事を決めてしまいがちですが、日本だって幸せを感じる時とそうでない時でだいぶ差があります。

それに納得できなくてメンタルをやられる人も、自ら命を絶ってしまう人もいるくらいです。

物事には必ず両面があり、

  • 良いところ
  • 悪いところ

が、表裏一体となっていることを忘れてはいけません。

彼らにとっては、夜遅くまで路上でくっちゃべっていることが楽しいのかもしれませんし、スクーターで出勤することがこの上ないストレスなのかもしれません。

その国その国にいる人それぞれにも、自分の国に対して思うことはあるのだと思います。

日本でも生活の基準がそれぞれで違うように、「これだ」と正解を決めつけることはできないのです。

僕が教師をやっていた時も、各生徒の家庭状況に差がありすぎて、

本当にこの子は幸せに生きているのだろうか?

と、何度も考えたことがありました。

どんなに幸せな瞬間があっても、どこかで不愉快に思うことは出てきます。

その不愉快さをなくせるように、僕らは毎日を必死に生きているんだな

そう思いました。

その国の人たちなりの、僕なりの、幸せ。

改めて自分の幸せについて考える、いい機会となっています。

「幸せのものさし」は、その国、その人なりに全く異なる。いろんな生活を見ながら、また自分のできることを探していこう。

それでも世界は回っているということ

ベトナムの路上が汚くなっていく中、僕は夜の街を歩いてみることにしました。

するとゴミを回収する人がきて、まるでタワーのようにゴミを積み上げてリアカーに乗せ、去っていきました。

次の日の朝に路上を見てみれば、お世辞にも綺麗だとは言えませんでしたが、しっかりとそれなりの清潔さが残されていました。

街を歩いていますと、

  • こ綺麗な店内で接客をしている人
  • ずっと店頭でスマホをいじっている人
  • スクーターに乗らないかと客引きをする人

と、様々な人たちが見受けられます。

僕らの住んでいる日本は「画一的な社会だ」と思いがちですが、それぞれの幸せや悩みは、その人自身にしか分かりません。

仕事についても一緒で、日本国内でもいろんな仕事があり、その人なりにできることを見つけては、生きていけるように頑張っています。

僕が教師をしている時もそうでした。

自分のできることを、ただただひたすらに頑張っていた

ただそれだけのことでした。

韓国でも台湾でもベトナムでも、それぞれができることを探してはお金を稼いでいて、

  • 家族を養えるように
  • ご飯を食べられるように

頑張っています。

それぞれの国で、それぞれの時間が流れているだけであり、それを知ることができたのは、こうして現地に来たからでした。

テレビやネットで各国の状況を見ているだけでは、いつまでも「他人事」だからです。

世界はなんだかんだ言って、うまく回るようになっています。

その中でひずみもあれば、不満やストレスもあることでしょう。

しかし、ネガティブな側面を変えていくことができるのは、各国で今を生きている「その人たち自身」なのです。

もちろん、僕もそのうちの一人です。

それなら、彼らに負けないように僕も今を必死で生きること。

それしかありませんよね。

ツラそうに見える、ヤバそうに見える国でも、こうして生活は続いています。

正解や不正解はありませんが、1つ言えることは、

みんなが前を向いて、常に前進している

という事実があるということ。

その事実を感じ、また自分なりに消化していこうと思います。

生活が困窮している国や人は確かに存在する。ただそれぞれが前を向いて必死に生きている事実だけは、誰にでもわかることなのだ。

おわりに

現地に来て初めて経験する感覚。

頭をハンマーで殴られたような、そんな感覚。

この感覚を求めて僕は旅を始めましたし、改めて日本に帰ることを思い描くほどに、

その違いとは一体なんなのだろう?

と思うようになりました。

ここで暮らしたいと思う国は、何が魅力的なのでしょうか。

そんなことを考えながら、また各国の街の様子を見ていきたいと思います。

それではまた!

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