こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
今朝、中学生の生徒さんと話していて、「男女」についての話となりました。
以前にも、僕は記事を書いています。
- 許容度を広げることも大事だが
- その国にはその国の文化がある
というのが、当時の僕の意見でした。(ホッ)
日本はとても小さな国ですが、LGBTQや夫婦別姓を推進し過ぎてしまいますと、なかなか難しいことにもなりかねません。
「マイノリティ」も大事ですが、そこの判断は慎重になるべきなのかなと。
今日は「本当の自由を求めるために」できることはなんなのか。
書いていきます。
寛容になることとは?
さて、日本は「寛容ではない」排他的な国なのでしょうか。
確かに、タトゥーやピアス、LGBTQに対しては、少し時代遅れなのかもしれません。
それでも「受け入れる」と言う意味では、素晴らしい国家だと思っています。
僕が勘違いしてはいけないと思っているのは、

ということです。
確かにマイノリティ(=少数派)の人たちが虐(しいた)げられていることは差別であり、これはよろしくありません。
しかし、超極論で言いますと、

という案が出てきます。
そうしますと、
と弁解してくる人がいます。
でも、いずれ “そうなってしまう可能性がある” のではないでしょうか。
では、どの按配ならいいのか。
それを「わがまま」と言います。
もちろん、大多数が牛耳ってきた部分もあります。
例えばタバコだったり、体罰だったり、昭和の時代は許されていたことも、
という声が「正しい」と思われたことで、令和になってから受け入れられた部分もありました。
だから、「少数派の意見を主張するな」と言っているのではないのです。
それによって何をしたいのかが大事なのであり、本当に困っている人なんてほとんどいない場合、それは「ただの個人の主張」です。
僕も教員時代には、そういった「性」に悩む生徒さんと会ったこともありますから、トイレの際は教員のトイレを特別に使わせたりと、配慮をすることもありました。
でもだからと言って「彼/彼女」が、
とは言いませんでした。(言えなかったというわけでもないでしょう)
我慢してくれたのではありません。
「彼/彼女」なりに他の人たちを「配慮」してくれたのです。
だから先生たちも「彼/彼女」に「いやすい」環境を提供してあげた。
この感覚が大事なんじゃないかなって。
寛容を履き違えますと、大変な目に遭います。
しっかりと考えたいところですね。
自由になりたいなら平等を謳うな
「平等」という言葉は一見すると綺麗に聞こえますが、その内実はいろんな「悪」も含んでいます。
と言ってくださる発信者さんもいて、確かに「不公平である社会」はシンプルによくないと思います。
ただ一方で、平等であることとはかなり「難しい」と思うのです。
もちろん、そうした社会を目指していくことはいいことです。
しかし先述した通り、不公平な社会に対して思うように行かなくなった時に、
と謳(うた)うのは「違う」と思うのです。
男女は生物学的に異なる生物ですし、だからこそ男女用のトイレがあるわけでして。
夫婦の姓が一致するからこそ、うまく運んでいる事務的な処理もたくさんあります。
平等を謳い過ぎますと、結果的に「その人を苦しめることにもなる」ということなのです。
どの社会、どの国、どのコミュニティにもある程度「ルール」はあって、
- 守るべきルール
- 疑問を投げかけるべきルール
があります。
疑問を投げかけられるべき、あるいは改善すべき「ルール」が、先述したようなタバコだったり、パワハラだったりするのかなと。
ゆえに「平等」が主張されたことで、改めて考えさせられたこともありますから、一概に「すべてダメ」と言うつもりもありません。
しかしその裏に、
という考えがあるのであれば、それは違うのかなと。
先ほどの性自認の乖離がある生徒さんのように、ちゃんと他の生徒に配慮できるからこそ(申し訳ない部分もありますが)、社会が回っている部分もあるのですね。
不平等は、実は僕らが生まれた時から始まっています。
でも不公平は、公平に正すことができます。
平等を謳ったところで、公平になることはありません。
本当に自由が欲しいのであれば、現存する社会が、
- どうして存在しているのか
- どうしてうまく機能しているのか
を考えた上で、(「多くの人」とは言えませんが)「様々な人」が理解できる意見を打ち出していかなければなりません。
そして公平になるように働きかけることが、僕らのやるべきことなのです。
多数が正解ではないけれど…
よく言われるのは、
という反論です。
僕は、これはこれで「言葉の暴力」だと思っています。
要は、「少数」という言葉をいいように利用して、
と主張するタイプです。
何度も言うように、少数という理由だけで不公平を被(こうむ)ってきた部分も否めませんから、別に全てを否定しているというわけではありません。
ただ、それを “利用して” 自分の意見を主張するのは、「卑怯」なのです。
例えば僕が、

と言い始めたら笑、
と言う人は、どれだけいるでしょうか。
「いません」よね。
仮に「そうしたい」と思う人がいるとしても、社会という大きなコンテクストの中では、無理が生じる場合があるからです。
とはならないのです。
というルールは、それなりに意味があって成立しているものもあります。
逆に学校の校則などは「なぜ?」に答えられていないので、僕はキラいですけどね笑。
だから、ある意味で「大多数だけど正しいこと」もあります。
いつでも、数だけの問題ではないということ。
こればかりはトピックにもよりますが、「少数派」というところだけをいいように切り取ることは、悪い主張の方法です。
- そこに理由があって
- 様々な人が納得できる論があって
それから、持論を主張すべきです。
それが結果的に「大多数になってしまうこと」もあるでしょう。
ただ、だからと言って、
は、また勘違い。
気をつけなければならない点ですね。
おわりに
僕は決して、LGBTQや夫婦別姓を根っから否定しているわけではなくて、

とも聞きたいのです。
自由や平等は聞こえがいいですが、行き過ぎた際にはいろんな面で崩壊を招いてしまいかねません。
それをわかってでも押し通したい意見なのか。
その点は気になりますね。
それではまた!
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