こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
教育を語れるほど偉いわけではありませんが、一応曲がりなりにも教員をやっていますので、日本の「教育」について語っていこうと思います。
教員になることを考えている方や教育論好きな方には、議論の余地ばかり残ることとなると思いますが、僕なりの視点で書いていきます。
ぜひ皆さんも一緒になってお考え下さい。
教育の意義
結論から言いますと、最近僕が疑問に思っていることは果たして高校や大学、義務教育が本当に必要なのかということです。
生徒たちからよく「これをやって何の意味があるんですか」攻撃を受けます笑。
実はこれ、高校で教えている場合は「返しは楽チン」です。
「自分でここの教育を受けたいと思ったから、試験を受けて入学したんだろ?」でOKなのです。
いや、OKはOKなのですが、ではそもそも国語・算数・理科・社会・英語など(あるいは高等教育)は、突き詰めていった時に本当に意味があるのでしょうか。
ここで大切なことは「学校の教育(ここでは授業を表す)は意味がない」という立場を前提にするのではなく、単純な疑問を投げかけられた時に答えられるかどうかだと思っています。
例えばサラッと答えるなら「漢字」は必要そうに見えます。
国語の読解力や論理的文章の読み方なども、日本で生きていく上ではとても大切な気がします。
では算数はどうでしょう。
四則計算・分数・小数がある程度できて、まぁ図形の面積が求められれば上々じゃないでしょうか。
理科・社会は物事の現象や歴史、世界を知る上では重要ですが、最悪知らなくても生きていく分には問題がありません。
英語は必要かという議論の番組も見たことがありますが、言われてみれば「AIの発達」と「翻訳の技術」を借りれば、無理にコミュニケーション中心の授業を行なわずに「文法や読解中心の授業」をするほうが良さそうです。
英語を教えている立場として言わせていただきますと、英語は運用できると情報社会において圧倒的に有利です。
「文字情報」という意味では、知っていると知らないとでは大きな差が出てきます。
そういう意味では、今流行っている「コミュニカティブな授業」よりも長文読解などのほうが良い気もしますね。
このように数教科見て行くだけでも、簡単に疑問は沸いて出てきて、先生たちも参っているわけです。
- この教科はすぐなくしたほうがよいのでは?
- この教科は生きていく上で必要なのか?
といった議論は、しても尽きません。
その前に、日本がなぜこのような教育システムをとっているのかを考える必要がありそうです。
義務教育の意義は、一国民として子どもたちを育て上げるといった目的や、社会の構成員として立派にするということが挙げられています。
やはり暗に普通教科を小・中で勉強して(学習が困難だったり就職に意識が向いたりした生徒は高校には行かないが)、その知識をもとに高校を受験し、良い大学に入り良い就職先を探す…
といった流れを意味しているのだと思います。
よく挙げられる意見は、
- 日本の年功序列の雇用システムに組み込める人間を作り上げるため
- 周りと協調しながら出る杭とならせないため
といった意見です。面白い視点ですよね。
「うわ…まさに自分がその一人だ」と、ギクッとした人もいるのではないでしょうか。
こう考えると学校という存在が、まるで画一化される人間を生産している工場みたいですよね。
極論かもしれませんが、「日本の教育の目的はそうなんだろ?」と思っている人も少なからずいるわけですね。
今は時代の寵児とも言える方々が日本の教育をバッサリ切ったり、世の中の人々に投げかけたりしていますが、「日本の教育システムに大改革時代が来た」という感覚は、現場にいる僕たちには到底感じられないことですね。
残念ではありますが。
教育の有無
もしもこの日本に義務教育や学校、入試などの概念がなかったらどうなるでしょうか。
海外でのホームスクーリングなど、家庭での教育は「学校のそれ」に準じていますので、家庭にも学校の指示が降りてこない状態を仮定してみましょう。
そうしますと、読み書きなどは先生たちではなく家族の仕事となります。
父母、兄姉から教わったり、場合によってはご近所さんから学んだりするような、昔の寺子屋のような、そんなスタイルになりますよね。
家族・近所の人みんなに専門性があるわけはないですから、面倒で手間がかかります。
仕事がある場合は、子どもたちに教育している暇がありません。
結局のところ、外部委託したほうがよいということになります。
学校などの教育機関があったほうがいいという結論に至るわけですね。
(それで「学校に任せっぱなし」という家庭が多くなっているのはまた別の話)
しかし、これはあくまで「読み書きかそれ以上の学問」を修める必要がある場合です。
そもそも「読み書きは不要だ」という姿勢をとった場合はどうでしょう。
これはそもそもかなり難しい現実です。
この世界では、最低でもその国の言語を運用できないと生きていくのに苦労します。
だから読み書きは必須です。
では少しレベルを上げて、小学校で習う教科もろもろは、果たして本当に必要でしょうか。
ここら辺から、意見が分かれ始めるかと思います。
ホリエモンはどちらかというと、やりたいことをやらせる学校を目指しており、シラバスなどに縛られることを敬遠しているようです。
こうした考えに近い家庭は、私立の小学校に入れる傾向があるような気がします。
- では私立の小学校で行われる教育の意味とは?
- 結局は受験のための勉強環境を整えるため?
- あるいはエスカレーターで進学を狙っているのでは?
結局のところ、これらは公私関係ない疑問となって返ってきてしまいますね。
日本の教育に縛られない「独特な教育観念を持っている私立」くらいでないと、学校間の差別化はできないような、そんな日本の教育システムなのかなと思ってしまいます。
変わってゆく時代
今までは「5教科+実技科目」が普通でしたが、例えば「英語教育」や「プログラミング」が入ってきたように、今後の日本の教育は変わるべきだし変わらざるを得ないと思います。
それは原点に立ち返って必要か不要かを問うこともそうですし、ペーパー試験での点数や成績の付け方にも抜本的な改善が求められます。
まずペーパー試験ではない場合、確かに生徒の評価がつけづらくなります。
すると定期試験や入試で、一体どのようにして生徒を評価していくのかが問われてきます。
ここが面倒くさいので、ぶっちゃけペーパー試験が楽なのです。実際は公平性も担保されるので、賛成している方もいるのは事実です。
- 高校・大学入試や私立の入試が「知識の確認テスト」を必要としなくなった時
- あるいはペーパー試験を行なう機関への風当たりが強くなった時
そこまで来て初めて、教育そのものが変わると思います。
僕自身もお金の勉強をしたりこうしてブログを書いたりしていますと、「学校で教えるべきことってもっと他にあるんじゃないかな?」と思うこともあります。
それこそ英語を教えているときは、
- どのように試験対策をするのか。
- いかにして点数を獲るのか。
といった「how to」を教えている自分を俯瞰してしまい、悲しくなるときもあります。
一方コミュニケーション能力としての英語の授業や、実施している側も受けている側も一見楽しそうでアクティブですが、「実際に役立つのか」とか「将来性があるのか」と言われますと疑問がありますね。
脳科学の研究では、学校の多種多様な科目を学習することで、バランス良く脳が発達するという研究もあるそうです。
でもそこを結論にしても意味がないのが、教育の難しいところです。
「志望校合格の嬉しさ」や「分からないことが分かった時の嬉しさ」もまた、教育においての醍醐味です。
議論は尽きませんね。
学校の意味
授業を離れて考えるべきは、学校のあり方です。
学校に行くと同世代が必ずおり、人間関係の構築と破壊が繰り返されます。
これは学校でしか学べない、経験することのできない、貴重なことです。
さらに部活、行事、雑談、先生と生徒の関係、委員会、組織、思い出、青春など、教育という抽象概念を支える抽象的な要素はたくさんあります。
僕は生徒一人一人と、人生について、将来の職について話しているときが、一番教師として楽しいなと感じています。
勉強だけではないからこそ、「学校という独特の空間」を否定することはできません。
教育現場にいますと、学校の良さも同時に感じてしまうからです。
自分自身が学校という空間が好きだったこともありますね。
一方でその環境を嫌う子ももちろんいまして、学校に行くべきだという強制がいいことかどうかという議論もまた、平行線のままです。また別の話題ですね。
学校という場はあくまで授業がメインでありますが、それと同時に「学校という場」がもたらすメリットもあるのだということも、把握しておかなければなりませんね。
おわりに
性根が腐るほど真面目なので、こんなつまらない雑談となってしまいました。
教員になる前からもなってからも、この話題については何億回も考えました。
ただ僕は、あくまで教育システムの末端の存在です。できることはわずかしかありません。
僕ができることは、いつまでも成長をやめないこと・前進することを体現して生徒たちに見せること。
これもまた1つの教育のあり方なのではないかと思っています。
教育について語り合うことは無意味ではありませんし、それぞれの末端が、幹部が、組織ができることはまだまだ無限大です。
これからも語り合い、日本の教育について考え、よりよくしていきましょう。
それではまた!
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