こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
30代に突入してから「人生とはなんぞや」と考えるようになり、むさぼるように本を読み散らかしています。
以前に永松茂久さんの30代を無駄に生きるなという本を読みました。
「今自分にできることは何かな」と、思考の整理をしながら教員生活をしつつ、幸せを求めてブログを書く日々です。
「過去でも未来でもなく、今を生きろ」
と多くの人が言っていますが、影響力のある人が言っているからそうなのだと思うのではなく、それって当たり前の真理なんだなって納得して、今を生きることに精一杯全力を尽くしています。
僕は小学生の頃に「死」について考えたことがありました。
そして中学生の頃に「時・時間」について考えたことがありました。
ただ今は「自分が迎える最期とはどんなものなんだろう?」と考えをめぐらせるよりも、何ができるのだろうと考えるようにしています。
昔の体験と、現代を生きているこの時間を合わせて考えていきたいと思います。
小学生で考えた「死」とは?
今でも鮮明に覚えているのは「小学校のトイレの記憶」です。
確か小学校4〜5年生の時でした。
トイレに行って小便をしている時に、ふと泣いてしまったことがあったのです。
当時、なにかのきっかけで「死ぬこと」について考えており、
「死んだ後の世界は自分の意識がなくなるのではないか?」(当たり前)
と考え始めてしまったのです。
あまりにも「死ぬこと」が怖くなってしまって、今の自分の「意識」がなくなったらどんなに悲しいことだろうかと思い、堪えきれなくて泣いてしまいました。
「待って、この今の意識や思考がなくなるってどういうこと?自分がなくなるっていうこと?わけがわからないよ!」となったのですね。
その後、先生がかけつけてくれて、あの手この手でなだめてくださったことを覚えています。
なぜかその瞬間が鮮やかに記憶に残っています。
小学生も後半だったため、
- 自分への意識
- 自分の存在
を認知できるようになってきたからか、「死後の世界」のことをふと考えてしまったんでしょうね。
みなさんも時々考えることはありませんか?
- 今、目で見ている世界が、しっかりと目の前に存在している。
- 鏡に映った自分を、どこか他人の存在として客観視してしまう。
- 今手を動かそうと考えていないのに、サッと手が動いてすごいな。
考えれば考えるほど、生きているって奇跡なんですよね。
そしてこの地球の存在も。何もかもが奇跡なのです。
小学生の時はその「奇跡」が当たり前だと思えていた分、その当たり前がなくなったときに一体全体自分の意識や体はどこへ飛んでいくのだろうと考えたのですね。
人生で一度は「死」を考えるタイミングがあり、それは「死」と向き合うとても大切な瞬間なのです。
中学生で感じた「時」の概念
そんな小学生の一時の死生観も束の間、ガリ勉になった中学生の僕は、一丁前に「哲学」について考えます。
以下余談です。
知識があったわけではないのですが、倫理や哲学の分野に触れていると頭が良さそうな感じがしていたので、とっついてみたわけです笑。
その時あたりから、偉人の名言なども好きになるようになります。
僕が覚えているのは、中学2年生の三者面談です。
ホームルームの時間に、「今気になっていることはなんですか」というアンケートで「時間の概念」と書いたんですよね。
今考えても恥ずかしいのですが、担任の先生も、
「なんか考えていることが哲学的というか抽象的ですよね」
と無理やり褒めてくださりました笑。
当時の僕は「こういう難しい単語を使っておけば、一目置かれる」と思っていたフシがありましたからね。
それでも今思えば、中学生ながらに「時間」や「人生」など踏み入りづらい題材に踏み込んだことはいい経験でした。
学生時代を思い返せば、何も考えないまま「あっという間に終わったよな」と思っていたのですが、意外といろいろ感じたり考えてたりしていました。
- この学生時代はいつまで続くのだろうか?
- クラス替えするまで、いつまでこのクラスメイトたちと一緒に過ごせるのだろうか?
- この楽しい生活がいつまでも続くのだろうか?
- あぁ、でもいつかは終わるのか…?
と自問自答を繰り返していました。
この時あたりから「時間とは何か?」と考えるようになりましたね。
初めて感じる「今」という「生」
小・中学生とそこそこ深い思考を持ち合わせていたのですが、特に哲学者になることはありませんでした。
平々凡々な生活を繰り返し、教員になった20代もガムシャラに働いて終わったような気がします。
もちろん、教育現場では様々なことを感じ、それはそれで経験することのできない経験をさせてもらっていると思っています。
改めて「今」を見てみますと、考え方が180度変わっていることに気づきました。
やはり大きかった影響は、
- 「離婚」
- 「コロナ」
- 「読書」
だったかなと思います。
「30代に入ってこれから家庭を築いて…」という僕の思い描いていた「正解の人生」はどこか遠い別の世界のものだと思うようになり、いかにして、
- 今を楽しみ
- 今を幸せに生き
- 後悔のない人生にできるか
という考え方に変わりました。
今こうして学生時代のことを書いてみて気づいたのですが、僕は本当に青春を謳歌してきたほうなのだなと思います。
恋愛や青春など表面上のものではなくて、自分の本能に従ってやりたいことをその都度やってきた人生だったのだなと。
- 勉強
- 部活
- ダンス
など。
後先考えずにただ突っ走っていただけだったという悪い面も持ち合わせてはいましたけれど。
一方でここ数年は、その「やりたいことをやる自分」に意図的にストップをかけていました。
これがどうしてもストレスで仕方ありませんでした。
今はそのストッパーが外され、自由の身となっております。
小学生の頃に感じた「死に対する恐怖」はどこ吹く風となってしまいましたが、その分働き方や幸せ、今生きている人生について考えるようになりました。
中学生の頃の時間に対する浅はかな考え方は徐々に変わり、自分のお金と時間をどこに費やすかという資産や未来の時間について考えるようになりました。
幼い頃に考えていたことは実は僕の思考の根幹を成しており、それらが今ここに集結して見事な化学反応を起こしているのかと思いますと、未熟だった時に考えていたことも意味があったのだなと感じます。
今では、
「人生は一度しかないし、いつ死ぬかわからない。人の目とか他人の意見を気にして自分を殺すより、もっともっと挑戦して、失敗して、前に進みたい」
という思いと、それを裏付けられるように勉強を重ねる毎日です。
- 若い時にやりたいことを余すことなくやっていたエネルギー
- 今と、もう少し先の人生を考えるための知識と思考
が見事に調和し始め、わずながら手応えを感じています。
「自分が何をしたいか」「何に納得していないのか」という分析から始めて、少しずつできることを始めています。
最期に迎えるゴールはまだまだ遠いのかもしれないですが、今はなにかできないかとあれやこれやと試しながら、生き急いでいる毎日が、楽しくて仕方ないのです。
おわりに
小学生の時にふと感じた死神の足音は、実は僕の人生にとって良いことだったのだと思っています。
様々な本を読んだ直後、頭の中で「自分の人生の時間」を短い数直線にして、今立っている場所から「死」という数直線の端までの計算をしました。
簡潔にお伝えしますと、
「今30代で100歳に最期を迎えるとするとあと70年か。今の仕事を続けることはないだろうな。時間がもったいない」
というものでした。
人間誰しもが、逃れられない「老い」と「死」。
しかし死を恐れずに直視することで、今できることは今やらないと絶対に後悔するぞと自分に言い聞かせ、日々奮闘していくことを自分に約束することができました。
むしろ、今を精一杯生きる原動力に替えることができたのです。
よりストレスなく、より幸せな人生は自分の力で手にいれる。
それは早ければ早いほど、死ぬ時まで「多くの時間を自由に使えること」を意味します。
「思考と熟慮」のプロセスを踏んでからの、「ガンガンいこうぜ」笑。
この思考によって10代、20代とはまた違った生き方となってきましたね。
40代になった自分が後悔していないことを想像しつつ、今日もまたに思考し、次なる行動に移していこうと思います。
それではまた!
コメント