こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
教育の分野に携わっていますと、どうしても、
- 右へ倣え
- 集団行動
などが目立ち、できる限り横をそろえようとします。
僕は勉強をして褒められることがキライではなかったのですが、大人になるにつれて、
と強く思うようになりました。
特に先生ともなると、いろんな生徒を目の前にして、
こう思うようになりました。
もちろん、個別指導ができればそれほど簡単なことはありませんが、それもまた難しいものです。
今日は、
- 日本の教育における「自由と平等」
- 日本の教育で「個」に焦点を当てること
について書いていきます。
「平等」から「自由」へ
学校の先生だからこそわかることがあります。
みなさんも、なんとなくだとは思いますが、
おっしゃる通りですが、想像はみなさんの思う「それ以上」です笑。
逆に僕は、その「平等性」を武器にすることで、変なことをする先生に対しては、
ということができますけどね笑。
ただ、やはり自分のやりたい教育を考えていますと、不自由なことが多いのが事実です。
上の記事でも書きましたが、「横並びのイメージ」はいまだにぬぐいきれず、
と、まるで生徒たちを軍隊にしたいのかと思うような感覚を覚えます笑。
僕は先生の中でも、
- トガっていて
- 他に従わない
という偏屈ぶりですので笑、そういう意味では生徒の自由さを尊重してあげられる先生なのかもしれません。
もちろん、できる範囲で自由にしている程度ですので、
- 僕のクラスだけ規律がない
- 僕の授業だけ何をしてもよい
という環境を作りたいわけではありません。(悶々としてはいますが笑)
規律やルールの範囲内で「自由にすること」が大切ですからね。
ただ一方で、以前の僕はそのような「自由さ」は、実はそれほどありませんでした。
と思っていたことすらありました笑。
ある意味で過激派ですね笑。
その気持ちに変化が出てきたのは、「外の世界」を知るようになってからでした。
よく、
と言われます。
ほぼ間違ってはいませんが、実はこれは先生だけに限ったことではありません。
みなさんの周りにも、なかなかマインドブロックの外れない人っていますよね笑。
僕もそうでしたから、人が変わることの難しさはよくわかっているつもりです。
でも今の僕は、
と、思えるようになりました。
それは多くの人と出会ったり、本を読んだりと、様々な価値観に触れたからでした。
「平等」は「個」を消してしまう
「平等」という言葉は、とてもキレイに聞こえます。
しかしこの言葉の悪いところは、「出る杭を打ってしまう」こともあるということです。
ずっと変わらない教育現場は、生徒たちの自由と個性を奪ってきました。
本来は、もっと生徒たちのやりたいようにやればいいはずなのに、
と、凸凹を「ならそうと」してしまいます。
以前の僕も、周りの先生を見ては「それが正しいのだ」と思って指導していました。
もちろん、個別指導や少人数学級ではない分、
- 規律
- 統制
を指導する力がないと「学級崩壊」を起こしてしまいますから、大切なことではあります。
このバランス感覚は、確かに難しいところですけれど、このご時世で、
「30〜40人に対して、先生が大きな声で叫んで授業をする」
というスタイル自体、もう「時代遅れ感」でしかありません笑。
「バランスを取れ」というほうが難しく、僕も9年間の教員人生で「平等/自由」のどちらか片方を捨てた時もありました。
そもそも前提から、平等と自由を共存させるのには、かなり無理があるのです。
それでも「平等」の感覚が強い日本社会(学校社会)は、その分「自由」を奪ってきたのです。
特に今は、多くの学生が以前の「青春」を送ることができていない状態です。
世界の各国はどんどん前に進んでいるのに、日本はいつまで経っても同じ場所にステイし続けて前進しようとしません。
それによって、多くの若者たちの自由が奪われていることにも気づかずに。
いや、気づいていながらも、立場を変えられないのかもしれません。
日本とは「そういう国」です。
自由を奪うということは、生徒の「個性を奪うこと」とほぼ同義です。
普段の授業や文化祭、球技大会など、生徒たちが活躍できる場はたくさんあるはずなのに、
- ルールで縛り、
- 平等にしようとして、
- 個を消していってしまう。
学校がそんな状態だから、良い生徒も育たない。
未来への新芽を摘み取ってしまっていることに、いい加減気づくべきです。
「個」を輝かせるには?
教育のシステム自体が、
- 大人数の一方的な授業
- みんな一緒のカリキュラム
- 学年制で年齢によって区切る
など柔軟性がないため、その点を変えない限りは「平等の中」で、自由を主張するしかありません。
大きなシステムを変えられない要因として、「お金がないこと」が1つとしてあげられますが、裏を返せば、
ということを意味します。
それは「ダメだ」と思っています。
ざっくりですみません笑。
お金をかけてでも、そのシステムを変えてゆくべきなのです。
一番大きな問題は、1人の担任に30〜40人の生徒がついているという事実です。
授業もそうですね。
一応、その中で「個」を目立たせることもできますが、いかに能力のある生徒でも、
「みんなの前に出づらい空気」
が必ず生まれます。
先生も、生徒の能力を最大限に引き出すことができませんし、生徒自身も「出る杭」となりたがらないのです。
これが、日本が長い歴史をかけて積み重ねてきた空気なのです。
最近の僕は、輪をかけてこの空気感にうんざりしてきました。
そこでまず僕がしていることは、「既存のフレームを壊す大人」であろうとすることです。
生徒の前で雑談をする時は、
と、自分なりの「自由」を語るようにしています。(旅、投資、お金、価値観…)
プライベートでも、できる限り多くの知見を集めるようにしています。
そうすることで、
と生徒に思わせるのです。
もちろん、「いい意味で」の自由です笑。
それが「教育」だと思うのです。
ある意味、「自由にしていい」という洗脳でもありますので、どうなのかなとも思いますが笑。
いずれにせよ、いつの時代も若者とはエネルギッシュでパワフルなものです。
曲がりなりにも、その前を走る大人である僕が、自由を象徴する背中を見せていかなければなりません。
- 授業で話し、
- 行動で示す。
そうやって生徒たちには、平等ではなく「自由」を説いていこうと思っています。
おわりに
最近の僕は、教育の「中の人」でありながらも、おこがましいかもしれませんが客観的な視点で教育現場を見るようになりました。
見ればみるほど、「教育それ自体がおかしなこと」ばかりですし、以前とほとんど変わろうとしていません。
変わっても「そのスピードは遅い」という体たらくっぷりです笑。
そんな場所では、僕自身もガラパゴス化してしまいます。
停滞し続けるのではなく、若い生徒たちが最先端を行くように僕ら教師たち、大人たちも前に進み続けて、新しい視点を取り入れ続けてゆく。
成長し続ける大人の背中は、生徒たちにきっとカッコよく映るはずです。
かっこいい大人を目指して、日々勉強と成長ですね。
それではまた!
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