こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
とはよく言われたものですが、そうは言っても、
と思い、考えることがありました。
最近ですと、一人で外で歩いている時はマスクを外すのですが、それは「もうマスクをつけ続けるフェーズではない」と自分で考えて決めたことでした。
それでも、マスクを頑なに外さない人たちがいるのを見て、
と思うようになりました。
マスクは今日の論点ではありませんが、それは日本という国が生んだ弊害の1つだと思っています。
この点に関しては、以前にも書かせてもらいました。
最近は、強くそう思うようになりました。
今日は、
- あるべき自分
- ありのままの自分
について書いていきます。
あるべき自分になっていないか?
以前の僕は、
「誰かの求める像」
になろうと必死でした。
自分に言い聞かせている間はストレスがありませんが(というより気づいていない)、
- 人生について考え
- 自由を追い求める
ようになってからは、自分の「その姿勢」に嫌気が差してきました。
そう考え始めると、自分のことが気持ち悪くて仕方なくなってしまいました。
以前の僕は以下の通りです。
- 真面目
- 成績優秀
- ルールは破らない
- 言われたことはきちんとこなす
と思われるかもしれません笑。
しかし実は、誰かに褒められたくてやっていた部分もあり、怒られないことに重きを置いていたフシがありました。
人間、できる限り平和に生きることは悪いことではありませんが、例えば従順に言うことを聞いている生徒を見ていますと、
と思わされます。
それは、その生徒が自らの理想像を作り上げているようにしか思えなかったからです。
一方で、自由気ままに振舞っている生徒は、先生たちからの格好の標的となります。
僕はそれが正しいことだと思っていましたし、
と、友人の同僚が言っていたことにも感銘を受けていたものでした。
ただ、今はそうじゃないなと思っていますし、自由気ままな生徒のほうがいいなって思います。
ルールというよりも、倫理規範やマナーを最低限守ればよいのですし、もしかしたらルールが間違っている時もあるかもしれないからです。
どう考えたっておかしいこともまかり通るのが、現代の日本。
そんな社会の「型」にハマるように生きようとしたら、それは「ありのままの自分」ではなく、「あるべき自分」となってしまっています。
人の求める自分となるのか、はたまた「自分」という人間を貫いていくのか。
みなさんなら、どちらの人生がいいですか?
ありのままの自分を獲得しよう
先ほどのマスクは一例に過ぎませんが、僕という人間もずっと「あるべき自分」を追い求めていた人間の1人でした。
「誰か」に求められている姿以上に、社会が求める人間になろうとしてしまっているような気がしました。
周りにいる、不特定多数の群衆。
その一部に紛れこもうとしている自分。
以前の僕は、そんなことばかりでした。
今の僕は「ありのままの自分」でいられるように努めています。
いえ、「努めよう」としている時点で本当は「いけない状態」なのですけどね。
努めなければいけない状態になるくらい、今の日本は、
- 自由
- ありのまま
を排除してきたのだと思います。
インフルエンサーやYouTuberなど、自由に生きる人たちが徐々に増えてきたことが後押しとなりましたが、彼らも「自由に、ありのままに生きたい」と思ったのではないでしょうかね。
僕も少しずつですが、そう思うようになりました。
ルールやマニュアル、足並みを揃えることも大切なことですが、世界に「絶対のルール」は存在しません。
一応「社会がうまく回るように」とルールがあるだけで、学校にいますと、
と思うことが多々あります。
- 社会の目を気にしたり
- とりあえず良い子に見られたかったり
する生き方は、とても窮屈ですし本来の自分ではありません。
もちろん「ルールなんて破ればいい」というわけではありませんが、自分の頭で考えて出した答えなら、ある程度自信を持っても構わないと思います。
その上で、
と言ってくれるのか、
と言ってくるのかで、だいぶその友人の考え方は違ってきます。
後者は、他人の人生を生きている自分を正当化したいだけです。
ルールや社会マナーを自身で考えた上で、きちんと判断したのならば、それもまた1つの正義なのですから、自信を持ちましょう。
大切なことは、「何か違うんだよな」と思ったまま生きないことです。
それは「ありのままの自分」ではないのですから。
ありのままでいるためのマインド
特に「ありのままの生き方」を邪魔するものは、
- 大多数
- 同調圧力
です。
これらについては非常に言い方が難しく、
とケンカ腰で発言することもまた、論争を生み出しかねません。
しかし実際は、周りの目を気にするあまり、
- 自分の素を出せなかったり
- 自分のやりたいことができなかったり
することは多いものです。
僕が「人の目」を気にしなくなったのは、自分のしている行動に自信を持つことが始まりでした。
なんども考えた上で下した決断であれば、その行動には「理由/根拠」が伴います。
一方で、何も考えずに、
と大声で叫んでしまいますと、裏付けのないただのワガママになってしまいます。
- 状況を見て
- 自分の頭で論理的に考え
- 比較検証した上で正しいと思えたのなら
それは行動に移していいことだと思っています。
それでも、
- 変な目で見られたり
- 「お前は違う」と否定されたり
することもあるかと思います。
ただそこで揺らぐような状態なら、それは「確固たる信念」を伴わない行動であっただけだということです。
「自分のありままの姿で生きる」ということは、それだけ責任を伴うものです。
言い方は多少カタくなってしまいますが、自分を貫くということは意見や行動を揺るぎないものにしなければならないのです。
特に学校の先生は、ルールや規範に則って生徒に指導をしますが、なんでもかんでも摘発して指導することは、実は逆効果であることもあります。
僕も、
と思うような校則については、たまにわざと見逃すこともあります。
無意味で、表面的な指導にしかならないからです。
しかし、組織として指導に一貫性がなくなることもよろしくないので、担当の人に「どうしてこの校則があるのですか」ときちんと理由を聞くようにしています。
そこで理解ができないような返答があれば、悪いですが生徒に指導ができないこともあります。
学校の一貫性を取るかどうか迷うところですが、なんとなくの指導にして終わることが多いですね笑。(本当はいけない)
同じように、自分自身の「ルール」も深く練ったものでなければなりません。
自信を持って言えること(あるいはできること)であるならば、それはありのままの自分を表現する土台となります。
大多数に流されないようにするには、確固たる信念が必要なのです。
逆にそれさえあれば、何を言われても揺るがない信念が、自分の心の中に根付くはずです。
おわりに
現代社会には「あるべき自分」を生きている、あるいは「そのフリ」をして生きている人が多いです。
本当はもっと、人間って自由にありのままの自分を出していいはずなのです。
そこでストップをかけてしまう時というのは、必ず周りを気にしている時です。
そうならないためにも、確固たる信念を築けるように、たくさん考えてみましょう。
その上で取る行動なら、間違っていないものですから。
それではまた!
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