こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
先日夢をかなえるゾウの第4巻を読み終わり、読後感と言うのでしょうか、とても感動してしまいました。
第4巻では「人の死」がテーマとなっており、余命3ヶ月の男性が主人公として登場します。
彼には奥さんと娘がいるのですが、読書後半から最後のほうにかけては、感情移入し過ぎて泣いてしまいました笑。
ご家族やお子さんがいる方には強くオススメしたい一冊ですね。
ちなみに以前にも死生観については記事を書いています。
今回は本書で出てきたテーマ「迫り来る死をどう受け入れるか」がとても印象的でしたので、それについてお話していきたいと思います。
やや抽象的で、哲学チックなお話になりますが、ご容赦ください。
僕はこの手の話が大好きですので笑。
岩と石と砂の話
死について考え悩む主人公に対して、インドのゾウの神様であるガネーシャは「自分」とは何かを主人公に尋ねます。
さてみなさんは、自分のことをいつどのように「自分」という存在として定義していますか。
- 生きている今この瞬間でしょうか。
- 死んだ後は、もう自分ではなくなるという考え方でしょうか。
これについて、さらにガネーシャは問いかけてきます。
- では寝ている間は自分ではないのか?
- 意識を失っている間は?
- 記憶がおぼろげな赤ちゃんの頃は?
- 脳死状態の人は?
いつどの時間の部分を切り取って自分と定義するかは、そう簡単なことではありません。
そこでガネーシャは、主人公にこんな問いかけをします。
「目の前にあるこの塊、あんたなら何て呼ぶ?」と。
主人公の目の前にある「塊」とは、公園に落ちている「石」です。
僕らは石ころを見れば、それを「石」と呼ぶ以外に選択肢がありません。
「砂」というほどサラサラしているわけでもないですし、渓谷にあるような「岩」というには小さすぎます。
「じゃあこれならどうや」と、ガネーシャはマトリョシカよろしく小さな砂つぶレベルの大きさから、大きな岩の大きさまで順々に地面に描いていきます。
「どこまでが砂で、どこまでが岩や?」と。
こうなってしまいますと「どこからどこまでを石と呼ぼうか…」と首をかしげてしまいますよね。
ガネーシャが言いたかったこととは、境界線は人間が勝手に決めているものだということでした。
石や砂になる前はもともとそれらは大きな岩であり、侵食や風化によって削り出され今の形となっています。
ゆえに「石」や「砂」という名前をつけることは、「人間の都合」とも言えます。
「自分」という存在にも同じことが言えます。
「ここからここまでは自分だ」という定義をすることは、「ここからここまでが石だ」と定義することと変わらないということです。
便宜上、「ここからここまでが生で、この時は死だ」と決めているだけなのです。
実際は「どれも元は岩」であったように、人間の生死に線引きはできないというのです。
生と死の線引きをするということは、生きている間の人間は「特別な存在である」と意識して解釈してしまうことです。
するとその存在が、何か突発的に生まれてきたように思えてしまいます。
しかし、人間も元をたどっていけば原子や素粒子の集まったただの一有機体でしかないということ。
そこに死という特別な概念が介入することはなく、ただ生まれて、そしてまた元の状態に戻るということを理解すること。
これによって、死を受け入れることができるというのです。
だって、何も特別なことではないのですから。
衝撃を受けた、目からウロコの考え方でした。
境界線はない=つながりを意識する
本書を読んでいましたら、何年か前に大学院時代の友人と飲んだ時のことを思い出しました。
その時の友人の言葉を今でも覚えています。
「人間」や「自分」の境界線についての話でした。
先ほどは「どこまでが自分なのか」という意識について考えましたが、今度は「物体としての自分」という考え方です。
ちょっと何言っているのかわからないと思いますが笑。
では例をあげましょう。自分という存在の範囲は、
- 皮膚の表面までか?
- 触れているものまでか?
- オーラが出ているとしたら、その範囲までか?
などでしょうか。
まず「自分」という1人の器、あるいは容器として数えるのがごく自然ですので、それを持って「1人」という定義になるのが普通です。
なんとその友人は「人間は元はと言えば原子や素粒子の集まりだ」という先ほどの考えを用いて、全ての物質が繋がっているため、自分という範囲は定義できないと言ったのです。
つまり今から食べる目の前のご飯だけでなく、パソコンもコップも時計も本棚も、場合によっては僕らの一部、あるいは一部「だった」と定義できてしまうという考え方です。
食べ物ならまだしも、無機質な物質まで僕ら人間の一部であると解釈していたことに、当時の僕は理解が及ばず、ただ面白い発想だと思って鼻で笑っていました。
しかしこうして「夢をかなえるゾウ」の岩と石と砂の話を読んでから、「なるほどあの時聞いた話は深い考え方だったのだな」と思うようになりました。
本書でも岩が砂へと移り変わっていくように、地球上の全てものにはつながりがあると書かれています。
それを意識するだけでも死を特別視することがなくなり、「死を受け入れて今を生きていくこと」ができるのだと締めくくられています。
僕も人生を見つめ直し始めてからは、「つながり」を意識することが多くなってきました。
- 朝起きて家を出た時に外の匂いをかぐ。(特に冬は気持ちが良い)
- サウナで空を流れる雲を見つめながら、陽光を浴びて呼吸する。
- ご飯を食べる時に、自分の血肉となることを意識して食べるようにする。
- 水を飲む時、水が体内を駆け巡っていることをイメージする。
などです笑。
ちょっとマジでスピリチュアルな話になってきて本当に恐縮なのですが、こうして「つながり」を意識するだけで、今を生きている喜びや幸せを噛みしめることができるようになってきたのは事実です。
特にサウナは「自然と一体となること」を目的としているとも言われていますので、外界とのつながりを意識するにはピッタリの方法です。
この意識を持つだけで、さらに他人とのつながりを意識することもできるようになり、僕は以前より人に優しくなったようにすら思います。
そう、これによって無敵になることができるのです笑。
人間の生きる意味=経験
本書のラストに差し掛かる場面で、
「人間が生まれて死んでいく意味なんて、ないのではないか?」
という率直な疑問が、ガネーシャにぶつけられます。
確かに、岩から石へ、石から砂へと流転していくことが当たり前だと捉えることは、自分の存在が特別ではないと言っていることに他なりません。
では人間として生きている間に何ができるのか。
そこでガネーシャは、人間の存在理由は経験をすることなのだと語ります。
死を恐れないことは、「何も感じず考えずに生きていくこと」と同義ではありません。
死を受け入れた上で、今の自分という器でどのような経験をして生きていくのか。
これが「生きていく意味」だと言うのです。
本シリーズには「行動や経験」という言葉は何度も出てきますが、僕自身もそれが全てだと思うようになりました。
今生きているのは、この体で、この世界を存分に感じること以外にないのではないだろうか、と。
「後悔のない人生」とは月並みかつ使い古された言葉ですが、僕にもたくさん「死ぬまでにやりたいことリスト」があります。
- 英語関係のビジネスを起こしてみたい。
- 世界を旅してみたい。
- 様々な言語の人と話してみたい。
- 大切だと思える人と出会ってみたい。
- 家族を持ってみたい。
- サウナ施設を作ってみたい。
- カフェを作ってみたい。
- ダンススタジオを作ってみたい。
- リゾート地で何日も過ごしてみたい。
と、僕の人生でやらなければならないことがまだまだたくさんあります笑。
そしてこれらの経験をするために踏むべき始めの一歩は、行動でしかありえないのです。
夢を描くのも自由。好きを語るのも自由。目標を掲げるのも自由。
しかしそれらの想像を、一度しかない人生で実現しようと思うのであれば、実際すぐにやってみる以外は実現し得ないのですよね。
30代から見れば「20代なんて何でもできた」、20代から見れば「10代なんて何でもできた」。
では今は何もできないのでしょうか。
僕は自分に言い訳をし続けてきた数年間を振り返ってみて、やっと踏ん切りがつきました。
これも本書を始めとして、多くの友人や書籍と出会えたおかげです。
新たな経験をするために、いろいろと手放さければならない時期がすぐそこまで来ています。
おわりに
あっという間に読み終えた「夢をかなえるゾウ」シリーズ。
最初は「有名な本」という認識しかありませんでしたが、なぜこの本がベストセラーになったのか、納得がいきました。
現代の多くの悩める人たちの胸に刺さる言葉が、本書にはいくつも散りばめられています。
ただし、この本を読んだとしても行動に移さなければ意味がありません。
僕もせっかく背中を押されましたので、新たな人生に向けて、またたくさんチャレンジしていこうと思っています。
みなさんもともに行動していきましょうね。
本書に出会えて本当に感謝しています。ありがとうございました。
それではまた!
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