人間は理由を探してしまうけれど…【好きなものには理由なんてない】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、友人たちと朝活をしていますと、

なぜ英語が好きなのか?

という質問が来たそうです。

僕はその質問者を批判するわけでもありませんし、「なんで好きなの?」という質問なんて、僕自身もたくさん人に聞いてしまいます笑。

ただ、あえて深く掘っていきますと、

人間に「好き」の理由なんてない

というのが、現実の答えだと思うんですよね。

「好き」だから「好き」なのであり、何か喜びや興奮を覚えるという、それだけのことなんですよね。

今日は「好き」について書いていきます。

ムダなことほど人生を豊かにする。本当の意味でのムダをなくし、自分の「好き」やいい意味での浪費に時間とお金をかけていこう。

そもそも理由なんてない

好きに理由なんてない。

まぁ、探そうと思えば見つけることはできるのでしょうけれど、

好きなもんは好きだー!

と思いますよね笑。

恋愛でもそうでしょうし、好きな友人たちとつるむ時も、

別に。なんとなく気が合うし

くらいに思うのが普通なんじゃないでしょうかね。

人間だって、ちょっと遠くから目を細めて見れば、ただの動物でしかありません笑。

それでも、理由はなくても美味しい料理は食べたいですし、エンタメを楽しみたいのです。

全ての「好き」を削れば、

  1. 野山で動物や野菜を狩り
  2. 食べては生きて、子育てする

という、原始的な生活に戻ることとなりますし、実際はそれでも地球で生きていけます。

だから、「好き」にはほとんど理由がないというのが僕の見解です。

以前、僕の通っていた教育大学で教えていた教授も、

好きなものなんてね。理由を聞いてもなかなか英会話は続かないものよ

とおっしゃっていました。

みなさんにも「好き」があるかと思います。

それに対して、特別な「意味」なんてあるのでしょうか。

  • 仕事
  • 趣味
  • 人間関係

なんて、

キラいなものを排除して、好きなものを突き詰めてゆくこと

が全てです。

時には耐えなければならないこともありますが、それは「好き」だからこそできることですよね。

自分が全く興味もない、好きでもないものは、誰もやりたくないものなのです。

だから「好き」にいちいち理由なんて求めなくてもいい。

話の流れで「なんで?」と聞くことは問題ありませんし、会話のとっかかりとしては大事です。

ただ、”あえて” 根本まで探っていきますと、

やっぱり、理由なんてないんじゃない?

と思ってしまいますね。

「好き」に対して理由を探すほうが難しい。好きなものは好きであり、特別な理由なんてないのだ。

ムダをどう捉えるか?

僕は効率的な人間ですし笑、ムダなものは買わないという「ミニマリスト人間」なほうではあります。

なるほど。やはりせいじ的には、ムダなものは全て排除したほうがいいってことなんだな?

こんな風に極端にとられそうですが、「それは違う」と突っ込まさせていただきます。

そうなんです。

  • ダンスも
  • ブログも
  • 言語学習も
  • 友人との飲み会も

意味がないと言えば、「意味がない」のです笑。

あえて言いましょう。

ダンスの時間もブログの時間もなくし、言語学習もなくして友人との時間も削ってみましょうか。

お金は貯まり、もしかしたらすぐにFIRE(経済的自立)に近づけるかもしれません。

しかしそれを「ムダ」だと思うかどうかは、“その人” 次第なのです。

部活動なんかも典型的な例ですが、あんなものなければないに越したことはありません。

一方で、その良さを知っている人間からしますと、

うーん…全面的に反対とまでは言えないんだよなぁ

とも思ってしまいます。

もちろん、部活の良さは置いておいて、現実的に見ますと部活動は先生の仕事を無意味に増やしてはいるのですけどね。

とにかく、どんな「ムダだと思えること」も、人の立場や考え方によって見え方が変わってくるのだということ。

人間の生活も、地球規模でみれば「ムダなこと」ばかりですからね。

でもこれを「浪費」といい、そこにこそ「幸せ」を感じたりするものです。

大切なのは、

  • やりたくないこと
  • やる必要のないこと
  • やらなくてもいいこと

など、その人の負担になっていることや、普段生活の障壁となってしまうことを強いられて(あるいは自分に強いて)いないかどうかということ。

自分の生活にはムダが多いなぁ…

と思うのであれば、それはいい意味での「浪費」とは言えないでしょうね。

この線引きは個人によるもの。

僕は生活の中で明らかにムダになるようなものに関しては、排除するように努めています。

「ムダなもの」への感じ方は人それぞれだ。それが生活の妨げになっているのならば、なくしていこう。浪費として生活が豊かになるなら、積極的にその時間を作っていこう。

ムダこそ人生

朝活で友人と話していますと、

ムダこそ人生

という言葉を、番組か何かのインタビューで聞いて、

なるほど!これは衝撃だわ

と言っていた友人がいました。

僕が浪費を重視しているように、

  • 旅行
  • ダンス
  • ブログ
  • サウナ
  • 言語学習
  • 友人との会食

などは、今すぐにでもなくせます笑。

では果たしてそんな生活こそが、僕の求めていた「幸せのカタチ」なのでしょうか。

むしろ浪費をするために、お金を貯めている人すらいますよね。

もちろん、

今のうちにめちゃくちゃお金を貯めて…

という判断をされて、浪費控えをしている方もいます。

それはケースバイケースやタイミングの話ですし、逆に言えば「浪費をしないこと」もまた、その人が選んだ人生です。(例えば「興味のあるものがない」など)

しかし、僕が「幸せを求めて」このブログを書いた経緯を遡(さかのぼ)ってみますと、やはり「浪費すること」は、どこか人生を豊かにすることなのではないのかなと思うのです。

人間って貪欲ですから笑、

あれもしたい
これもしたい

と思うものなんですよね。

だったら、先ほどの「好きに理由はない」という論と同じように、

ムダであっても、幸せに感じるなら続ければいいじゃない?

という論が成り立つとも、僕は思うのです。

  1. いかにムダに(浪費をして)生きていきつつ
  2. 動物としての最低限の生活を成り立たせてゆくのか

これに尽きると思っています。

ムダなことをやっていってもいいじゃない。

だって人間だもの。

だからこそ、自分が好きでやっていることに文句やグチを言うことはおかしいし、泣き言なんて言っていられないとも言えます。

「好き」なことは、時に他人からは「ムダ」だと思われることもあります。

それでも続けたいことなのだから、誇りを持ってやったらいいですし、幸せを感じるなら積極的に日常に取り入れていきましょう。

人生はムダなことで溢れている。でもそれが自分にとって大切な浪費なら、積極的にやっていこう。

おわりに

「ムダなこと」の定義とは、人によって変わってきます。

「全てがムダだ」と言い始めれば、人間の趣味を含む全ての活動が無意味でムダなことになりかねません。

  1. 自分が好きで
  2. 生活に支障がないのであれば

どんどん取り入れていったらいい。

それらが「他と一線を画する」経験にもなり得ますし、コミュニケーションのきっかけにもなります。

それってムダじゃない?

と言われても、自分が吟味して必要だと思うものに関してはそのままでいい。

逆にそうでなければ、本当にムダなものかもしれませんから、考え直す必要がありそうですね。

それではまた!

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