こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
教員をしていますと、必ず「授業」がございます笑。
しかし僕は、あまり時間にこだわったことがありません。
大前提として「量」が大事なのは当然のことですが、以前に管理職から言われた言葉が今でも引っかかっています。
僕はこう思いました。
と笑。
言っていることは正論のように思えますが、教育や授業の本質ではないと思っています。
そんな細かいところにフォーカスする必要はありません。
もっともっと「大きな部分」を見ていかないと。
今日は「時間で区切る意味」について書いていきます。
時間で区切る意味とは?
授業に限らず、学校は年間のスケジュールが決まっています。
- 〇月にはこれをやって
- 〇日までにはこう進んでいく
というように、僕もこの「流れがわかっていること」自体がとても心地よいものでした。
しかし、
と上から言われた時は、相当違和感がありました。
今でも日本ではそんな教育が続いているので、僕は辟易(へきえき)して仕方ないのですが、要は「勉強時間を〇時間確保しろ」ということです。
僕の第一印象はこうです。
「〇週やりなさい」というのは、
- 現場をコントロールしたい
- やっている「てい」を見せておきたい
ということにしか思えないからです。
もちろん、極端な例も考えてみました。
もし授業日数や授業時間が決まっていなければ、
- 極端に授業が少ない学校
- 授業をすごく早く切り上げる先生
が出てしまうという懸念がありますからね。
これを聞いて、果たしてみなさんは「確かにそうだよな」と思うでしょうか。
僕はそう思いません。
授業とは、先生と生徒の信頼関係で成り立っているからです。
そこに信頼関係があれば、時間なんて関係ない。
ある程度時間の範囲は決めておいてもいいでしょうけれど、学校現場(あるいは上の人たち)はどちらかというと「数字」にフォーカスがいき過ぎています。
もっと「授業の内容/本質」に目を向けなければなりません。
その上で時間がかかってしまうことは自然なことですし、しっかりとやっていれば、それだけで十分な授業時間の確保ができていると思っています。
時間で区切りつつ良い按配で判断
事業を営まれている方々としては、「時間単価」を意識されるかと思います。
自分の労働時間に「終わり/区切り」をつけるからこそ、いつまでもダラダラと仕事をしないようにできますしね。
一方で、学校現場における「〇時までね」という「縛り」はほとんど意味を成しません。
試験時間なども、難易度の高い試験なら80〜120分とたっぷり時間を確保しても良いでしょうが、ちょっとした確認のテストであれば、50分も要らないと感じる時があります。
普通に考えて「ただの無の時間」であり、生徒にも先生にもメリットはありません。
海外では(日本はダメとは言いたくないものの)、試験を解き終わったら前に提出して退出するということもあります。
個人的にはそのほうが好きです笑。
「〇時まで待機させておく」などもまた無意味であるように、学校現場にはどう考えても意味のない時間が存在します。
「みんなで時間をそろえて!」という言葉を聞くたびに、いつもモヤモヤしてしまいます。
先ほどの「50分間、最後までしっかり授業」という言葉にも、同じような違和感があるのです。
最後の1分まで授業をやったとして、何か大きな変化でもあるのでしょうか。
- きちんと授業して
- 生徒と信頼関係を築いて
- 区切りが良ければ終わらせる
そんな按配でいいのだと、僕は思っています。
仮にもしこれが、全く信頼のないまま、
と決め込んで授業を続けていたら、生徒からも保護者からもクレームが来るのは当然のことです笑。
極端に、
- 授業なんて10分でいい
- 授業は週2日であとは自習の日
などと、とにかく少なくすればいいとは思っていません。
ある程度のバランスで見積もりながら、その中で判断して動いていくこと。
現場は、そのように動きたい人に動かせる時間を与えないだけでなく、そう考えさせないようにもなっています。
そして生徒たちには不満が募り、「意味のない時間」について文句が出てくるのです。
そういった細かいところを、
という人は、僕は「怠惰」だと思っています。
効率化を目指したいわけではありません。
「本当にムダな時間」は、削ったほうがいいに決まっているからです。
ではなぜ削れないのか。
それは、
- 体裁を整えたい人
- 何も考えていない人
- やっている感を出したい人
がいるからに他なりません。
それが続くようでは、現場はいつまで経ってもムダな時間で溢れていくのです。
大切なのは時間よりも気持ち
僕は、この考えはとてもいいことだと思っています。
もし僕が先生をやるとして1時間だけ英語を教えるなら、全力で教えますし途中で終わらせることはありません。
その「時間」でお金をもらっているため、学校の授業とは質が全く異なってくるからです。
高校は義務教育ではありません。
中には、
と思っている生徒もいます。
そのような生徒たちを相手にすることと、授業を受けたくて僕の授業に申し込む生徒とでは、「こちらが与えたい」と思う気持ちが全く変わるのは仕方のないことです。
もちろん日々の授業もそうしたいものですが、そもそも「〇時間やりなさい」と決まっている意味がよくわからないですし、カリキュラムもとってつけたようなものばかりです。
なぜ「〇分/〇時間」じゃなければならないのか。
その根拠はどこにもないのです。
時間について「やり切るかどうか」を議論してしまいましたが、結局のところは、相手との相互作用だと思っています。
- こちらがどれだけ与えたいか
- 相手がどれだけサービスを受けたいか
これに尽きます。
そこに「公正なやり取り」が発生しているのであれば、僕はできる限り満足のいくようにサービスを与えたいですし、なんならオマケもつけてしまうかもしれません笑。(ちゃんと終わりは決めないとダメですが)
時間は後付けで決まるものであり、その中で範囲を決めていけばいい。
一方で学校の場合は、最初から「40〜50分」と授業時間や試験時間が決まってしまっています。
その点に疑問を持つ人がいないのです。
しかし普通に考えれば、
- 始業式/終業式なんて50分も要らない
- テストだって早く終われば解散で大丈夫
区切る時間の決め方は「結果的にそうなった」となるのが理想であり、その都度適当に変えていけばいい。
どちらが先かはあまり関係なく、時間に固執しなければそれでいいのではないかと思うのです。
もし時間を目一杯使いたいと思えているのであれば、それはとても良い関係性です。
今後僕が授業や事業を始めていくとしたら、そのようにフルコミットしたいと思える関係性を作っていきたいですね。
おわりに
「時間を設定すること」は大切なことであり、
と言い始めてしまいますと、お互いの終わりの時間が読めなかったり、際限なく時間を使ってしまうなど、逆に効率が悪くなってしまいます。
ただ、お互いに「もっと授業をしたい!/教わりたい!」と思える関係であることが、一番良いことであるということはわかります。
と言いたいわけでもありませんし笑、真剣な生徒もたくさんいます。
僕が言いたいことは、お互いにとって「気持ちのいい時間」を過ごすことであり、明らかに意味のない時間は修正して削っていきたいということです。
時間から考えるのでなく、お互いの気持ちの度合いから考えてみること。
公教育はビジネスではありませんが、時間効率の部分にもメスを入れていかないと、本当に「グダグダ」な教育が続き、先生たちは次々に辞めていってしまいます。
教育現場もどんどん変わっていかないと、ですね。
それではまた!
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