こんにちは。
美術館大好きっ子(初心者)のすずきは、以前に箱根の3つの美術館を一日で回ると言う偉業を成し遂げました。
実は東京の美術館も3つ連続で回ったことがあります笑。
それは上野にある東京都美術館、東京駅の東京ステーションギャラリー、三菱一号館美術館の3つです。
もちろん、かけた時間は1日です。
それぞれの感想を述べていきます。
吉田博展
東京都美術館でどうしても見たい作品展がありました。それは吉田博展です。
木版画で有名な方なのですが、その色鮮やかで本物と見間違えるレベルの木版画を作り、版画で同じ作品の色を変えて刷るという、神業を魅せた人です。
絵師、彫り師、刷り師など、木版画を完成させるために分業制をとったことでも有名な方です。
さて、いつも通りに6時半に起床したすずきは、上野発の夜行列車に乗って津軽海峡を目指したい気持ちを必死に抑えて、上野に到着しました。
ほぼ開館と同時に、浮足立つ気持ちを抑制しながら入ると人の多いこと。
まだ開館したばかりなのですが…
かなり人気なのだなと思いながら、みなさんと一緒に見て回ります。
「美術館についての記事」はとても難しいんですよね。
「美術館で見たものを表現したり伝えたりするのって難しいから、とりあえずみんな行って見てきてくれ」
と思うわけですけど、「そこがお前の腕の見せ所だろ」と言われるとその通りだなと思わざるを得ません。
木版画を見て感じたことは、その色鮮やかさです。
木版画の独特な淡い色合いは「写実性」を超え、現実の風景よりもまたその一歩上を行く幻想さを備えています。
来た瞬間に「間違いないところにきてしまったようだ…」と感じざるを得ませんでした。
ホキ美術館の時もそうですが、すごいところは入った瞬間に「ここは違うぞ」と思わされます。
2時間くらいで回った後、レストランに行って高いご飯でも食べようかと思ったのですが、1,000円程度のオムライスをいただきました。もちろん美味しかったです。
美術館で食べるご飯も、またサウナと違ったうまさがあります。
館内を歩いたり、階段を登ったりするので、意外とカロリー消費してるんですよね。
東京駅
上野恩賜公園の不忍池をぐるっと回って気持ち良くなった後は、御徒町駅まで歩いて東京駅へ。
「東京ステーションギャラリー」に到着すると、要予約だったことに気づきました。
「やばいぞ」と思って一応聞いてみたところ、なんとか侵入することができました。
ステーションギャラリーと言うゆえんはもちろん、東京駅内にある美術館だからです。
狭くてこじんまりしていますが、東京駅の歴史を感じられる美術館なのでオススメです。
当時は「南薫造展」を開催していましたので、印象派の絵もとりあえず見ておこうと思ってぐるっと回りました。
東京駅の歴史あるレンガの内装を感じながら、静かに見る美術作品の数々。ここは天国かと思いましたね。
なんと吉田博も南薫造もまさかの没後70年の展示会だったので、その偶然に感謝しながら印象派の「印象」を受けてきました。
基本の型と型破り
美術の専門的な知識はないのですが、やはりピカソもゴッホもよくわからなそうな絵を描きますが、実は基礎がめちゃめちゃしっかりしています。
この南薫造の作品群も「なんか抽象的だな」と思って見ていますと、たまにものすごい写実的で素人目線でも「これは上手い」と思わされる作品もさらっと出てきます。
美術館に行って思うことは型破りという言葉です。
この世に素晴らしい作品を残した芸術家たちというのは、とにかく基礎がすごく固められているということです。
何事もまずは「型」を作ることがとても大切。型ができて初めてその型を破っていくことができるのです。
英語でもダンスでも、文法や語順、フットワークの基礎練など、まずは基本に忠実にならないとお話になりません。
美術も同じなんだなと思います。
天才や例外はいるとは言え、周りからすごいと言われるものとは、その道を極めたものです。
その域に到達するためには、きちんと「0」から学ばなければならない。
何事も最初は大変ですよね。
でも始めてしまえば半分終わったようなもの。
韓国語で「시작이 반이다.」という言葉があって、僕がとても好きな言葉です。
逆を言えば始めるのが、イチバン苦労するんですけどね。
最初のその苦労を乗り切り、それが好きだなと思って続けていけば、きっと楽しくなってしまうのだと思います。
そしてその人なりの「型破り」をしたとき、唯一無二の存在になれるわけです。
初めての丸の内
東京駅には絶対来たことがあるはずなのですが、ずっと昔の話だったと思うので「初めて」ということにしておきます笑。
もちろん新幹線を使うときは来ますが、外観を見たのはこの歳になって初めてのことでした。
丸の内のほうの出口を出て、広ーいスペースに出た時のあの圧倒的な開放感。
道が広い。建物が高い。
丸の内OLって聞きますけど、ここら辺で仕事している人は絶対に年収が高い。
ほら見てください。みんなお洒落だし気取っていない。ここがTOKYOか。
東京駅の周りをうろつくだけでも立派なデートになると僕は考えております。
それくらい落ち着いていて、エレガントな空気が漂っていました。
圧倒されながら駅から歩くこと10分。
同僚の先生(オシャレでめっちゃ渋い叔父様)からご紹介いただいたのが、こちら「三菱一号館美術館」。
その外観は赤レンガ造りの立派な建物でして、三菱が丸の内に建てた最初の洋風事務所です。
その中庭?にもオシャレな方々がお座りになって、ご飯を召し上がりなさる。
当時は「コンスタブル展」をやっていました。
この方は油彩絵画で田園風景を多く手がけました。その作品を見ているだけでイギリスにいるような錯覚を覚えました。
ここもまた大勢の人が詰めかけて作品を食い入るように見ていましたが、その気持ちもわかります。
だって建物がオシャレなんですもの。作品もとても素晴らしかったです。
おわりに:作り手を想う
美術、特に絵画となると、なぜその絵を描く必要があったのだろうかという疑問が湧いて来ます。
正直な話、近現代であればカメラだってあったはずですし、それこそ現代でわざわざ風景画なんて描いたところで、写真には勝てません。
「それはその…アート、芸術だからだよ」とまとめてしまうのも違います。
木版画も風景画も肖像画も、そこに写真や映像では付け足すことのできない作り手の魂が宿ると僕は思っています。
作り手の解釈といってもよいでしょう。
吉田博の木版画を見た時も、その上手さに圧倒されたことはもちろんなのですが、それ以上にその絵の美しさに圧倒されました。
抽象作品のほうが「アートだ」「芸術だ」と定義しやすい分、風景画などはその存在意義を問う必要があります。
これは簡単な話で、いかに実際にあった情景の再現性が高いかが問題なのではなく、彼ら芸術家が独自の感性で再構築しただけなのだと思います。
それは抽象画においても、結局のところは一緒なんです。
基本を固めてきた、年数を重ねて来た人たちだからこそ、伝え方にそれぞれの解釈が介入する。
それがもともとあった情景や概念をまた一層きらびやかにして、見る人の心を打つ。
だから僕はそれ見たさに、美術館に足を運ぶのだと思います。
本を読み始めて感じたことですけど、美術でも建築でも思想でも記録でも、背景に必ずその人たちが写る瞬間があります。
人類の成し遂げて来た偉業を、読んだり鑑賞したり感じたりすることで、過去の人々と会話ができる媒体になるのではないかと思うのです。
「過去ばかり見てないで前を向け」と自分に言い聞かせたいところですが、悩んだり止まったりしたときこそ、こうして過去に同じ悩みを抱えて来た先人たちからヒントをもらうのも、悪くないと思います。
自分の人生も、何かこうして伝え続けていくことで誰かの役に立てるといいのですが。
そんな思いに耽ける30代でした。
それではまた!
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