こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
先日、喫煙してしまった生徒と話す機会がありました。
お互い初対面でしたが、まず僕の最初の生徒の印象は「やる気ゼロ」でした。
しかしそこから、生徒とたくさん話すことができて「自分は本当に考え方が変わったのだなぁ」と感じました。
と考えるようになっていたのです。
読書の力も手伝って、僕のマインドセットは「粘土も驚くほどの柔軟性」を備えていました。
そんな「やる気ゼロの生徒」と小一時間話して何を感じたのか。
書いていこうと思います。
生徒の幸せを大切にする
まず指導の部屋に入ると、ダラっと腰掛けた10代の若者が出迎えてくれました。
「ういーっす」と声をかけると、蚊の鳴くような返答しかありません。
その清々しいほどの無気力さに、むしろ敬意を払わなければならないのだろうかと、自分を疑いもしました。
全然話す気がなさそうだったので、生徒のプライベートを聞いて距離を近づけようと思いました。
など。
- 母子家庭や父子家庭
- 祖父母のもとで生活している生徒
もいます。
幸い、その生徒は家庭では特にストレスを感じていないという返事をしてくれました。
という会話から、話がポツリポツリと進み始めました。
と聞いてみますと、「『牢獄から出る』といえばわかる」であろうドラマを見ていたようでした笑。
と大げさに言いますと、クスっと乾いた笑い声が静かな部屋にこだましました。
こうして長く教員を続けていて、生徒と話して感じることは、僕自身の考え方が以前に比べると大きく変わったということでした。
特別指導と呼ばれるものは、
- どうやったら今後直せていけるのか
- 生徒がなぜそのような行為に及んでしまったのか
という方向に持っていくのが常套手段ですが、それ以前の状態の生徒も多くいるということを忘れてはなりません。
僕ら教師はたいていの場合、勉強して進学してきた人や、学校生活にあまり不自由なく生きてこられた人が多いと思っています。
僕も少し貧しい家庭の部類に入っていたとは思いますが、学校生活はとても楽しかったですし、大学の費用も親に出してもらっていたので(最後は自分で払いましたが)、恵まれていたほうなのだなと感じています。
生徒の中には生きていくのにも必死で、
- 勉強や学校どころではなかったり
- 親に暴力を振るわれている子や
- メシも食わせてもらっていない子もいる
など、以前の記事で何度か書かせていただいた通りです。
そんな子たちに向かって、
と圧する…
僕はこれを「しないこと」に決めました。
- もっともっと、生徒たちのことを知りたい。
- もし生活がうまくいっていないのであれば、それを聞いてみたい。
- 今の自分の生活が好きで、満足していて、生きていて幸せなのかということを確認したい。
そういった「生徒の核心」に迫るような質問をすることを始めたのです。
全肯定型指導
本来であれば、「指導のカタチ」というものは、学校の組織が体系的に造り上げていくものです。
ただし今回は1対1で生徒と話すため、
と思い、やってみることにました。
(実際、特別指導とはいろんな先生が入れ替わり立ち替わり話をするので、自由度は高いです)
さて、「やる気ゼロ」の子の日々の楽しみは「脱獄をするドラマを見ること」でしたね。
そんな話を聞いていますと、僕にはなんともありきたりな「引きこもり」のイメージが湧いてきました。
ということで、オンラインゲームの話を振ってみると、「ビンゴ」でした。
なんとそのゲームを通してすでに数十人の友人ができており、なんなら顔まで知っているし毎日電話もしているとのことでした。
最近の若者ってやつは…なんという「デジタル・ネイティブ」なのだろう。
それに「コミュニケーション能力も高い」ときています。
と聞いてみれば、
と答えてくれました。
なんだよ。
めちゃめちゃいい人柄も持っているじゃないか。
と伝えてみますと、
とのこと。
と、自分の「旅」のテリトリーに持ち込んでみようと試みました笑。
と、まさかのアウトドア派。
話をすればするほど、僕の最初の「引きこもりやる気ゼロ」のイメージは遠のくばかりです。
すると、
とポツリと言いました。
と、僕まで熱くなる結果となりました笑。
「やる気がない」と噂に聞いていた生徒1人にも、こんなにも考えていること、今後の展望ややりたいことがある。
だったら全部やってしまえばいい。
学校が全てではないのだから。
中卒だと何かと大変かもしれませんが、生徒が「今そうしたい」というのであれば、それを全部肯定してあげようと思ったのです。
そうやって話した時間はとても楽しくて、その生徒の将来にワクワクしてしまうほどでした。
昔と大きく変わったこと
僕が教師を続けていて最初に行なっていた指導とは、生徒を力でねじ伏せることに近かったように思います。
学校によっては事情が大きく異なりますが、「そこそこ頑張ってきた真面目な生徒」が集う学校に配属されますと、先生が強く言えば生徒はみんな背筋を伸ばして聞いてくれるという「勘違い」を引き起こすことがよくあります。
僕ももちろん、その「勘違いをした教師のうちの1人」でした。
しかし学校を移っていく中で、
- いろんな悩みや家庭環境を持つ生徒
- ツライ過去を抱える生徒
を目の当たりにして、自分の世界がいかに小さかったのかを気づかされました。
自分にできることは、
「人として正しいことはこれこれこうであり、未熟なお前たちはこれに従えばよいのだ」
と型に嵌(は)めることではなく、生徒が自由に「今という時代」を生き抜くことを応援してあげることなのだと思ったのです。
以前僕は、よく自問自答していたものでした。
「自分の指導は、ただ生徒を甘やかしている指導なのではないのだろうか」と。
若い時の僕は、生徒に「正しいこと」を「厳しく」教えることが、先生の役割だと思い(周りの圧力もあり)、毅然とした態度(ただし間違った解釈)を貫くことに「必死」でした。
今思えばそれは、逆に「小さい器」と言いますか、なんとも窮屈な指導のやり方をしていたのだなと思います。
世の中に「正しいこと」なんてありませんからね。
生徒が犯罪に手を染めてしまったり、取り返しのつかないことをしたりと、極端な問題行動は別ですが、まずは生徒の話しに耳を傾け、生徒と一緒に考えてあげること。
「一緒に」問題を解決していくことは、決して甘やかしではありません。
「生徒に寄り添う指導」とはよく使われる表現ですが、それが一番生徒を理解できる方法であり、かつ一番難しい指導法でもあると思っています。
少しずつですが、僕の中の生徒観・指導法は変わってきており、生徒に傾聴する姿勢が多くなってきました。
「先生」というカテゴリーとして見られるのもいいですけれど、「ちゃんと話を聞いてもらえる人」として認識されたいものですね。
おわりに
生徒への指導法については重複する記事が多数あり、それらを読めば読むほど「だいぶ以前と考え方が変わったな」と感じております笑。
今回の生徒指導法が、当該生徒にとってよかったことなのかどうなのかはわかりません。
むしろ僕のほうが学べたことが多かったようにも思います。
僕らの青春時代も「多感な時期」で、多くのことを感じては、疑問に思ったり反発したりしたものでした。
今の若者たちだって、それぞれがそれぞれなりに悩み苦しみ、今を生き抜いています。
- 「そんなことはいいから学校に来い」
- 「今すぐ反省文を書いて課題をやれ」
という指導は今の僕には信じられませんし、効果を発揮しない指導法という認識です。
生徒たちのために、一体僕らに何ができるのだろうか。
常に生徒のことを考えてしまう僕は、やっぱり教師に向いているのかもしれませんし、こんな教師はもしかしたら、教師としてダメな部類なのかもしれませんね。
正解はありませんが、だからこそ毎日が新しい。
悩みも元気も、生徒たちと一緒になって感じられるように、生徒とたくさん話をする時間をとっていこうと思います。
それではまた!
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