採点や評価はその人の好みで決まる【点数に縛られるのはやめにしよう】

雑談

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、

またダンスの大会の審査員をしてほしい

と頼まれて、横浜に向かいました。

毎年お世話になっていて、僕のようなプロでもない人を呼んでくれるのは、ありがたいことです。

ただ「審査員」ですから、どんな規模であれしっかりと見させてもらうことにしています。

たまたまAbema TVで「採点」についての議論がありましたので、

これは面白い

と思って見ていました。

若新さんが素晴らしい言語化をしていましたので、「さすがだな」と思いましたね。

今日は「評価」について書いていきます。

審査員とは単なる数字だけで評価しているのではない。その人の好みも大きく関わってくるのだ。点数に縛られずにいよう。

ダンスやお笑いに採点基準なんてない

ダンスをしていてよく聞かれるのは、

あれってどうやって勝敗を決めているの?

という質問です。

結論から言えば、「ジャッジの主観による」というのが回答になります。

え?点数とか採点基準とかないの?

こんな質問に対して、若新さんがズバッと答えます。

今まで僕たちは、テストなどで採点されることに慣れてきてしまったから、正しい採点基準があるかどうかを疑ってしまう

と。

M-1(漫才の大会)でも、本来はそんな「点数化できないもの」に対して、大御所の芸人さんが出てきて、頭を振り絞って順位を決めているのです。

僕もお笑いは好きですので、M-1はよく見ます。

その採点基準にどうこう言うつもりは、全くと言っていいほどありません。

これは、

  • 教員をしたことがある
  • 審査員になったことがある

という経験から、評価する側の立場をよく知っているからです。

どうこう言うなら、審査員になってみてよ

とね笑。

ダンスやお笑いは「文化(=カルチャー)」が大部分を占めていますので、もう最終的には「好み」でしかありません。

ダンスバトルについては、昔は、

なんで自分が負けたのか?

と、ジャッジに言い寄るダンサーもいました。

現在はだいぶ理解されるようになっていて、

「レジェンド=死線をくぐり抜けてきた経験豊富な人

という見方から、バトルに出るダンサーたちも、ジャッジの結果を理解をするようになっています。

僕も審査員としてジャッジするなら、やはり「自分がずっと力を入れてきたもの」だけしかしたくないですね笑。

それぐらい「審査すること」とは大変なことであり、最後は自分の経験則に基づいて判断するしかありません。

参加者はどちらの結果になっても受け入れるものですし、仮に物申すとしても、それはそれでまた面白いエンタメです。

いろんな事象を全部ひっくるめて、ダンスやお笑いは審査員に全権を委任しているのですね。

本来は点数のつけられないものに、僕らは点数をつけている。それは全てエンタメなのだ。

誰が審査するかも受容すればいい

この動画内で、カンニング竹山さんは、

全くズブのド素人があぁだこうだ言うのもまた、エンタメなんだ

と仰っていました。

僕は、

その考え方は面白いな

と思いました。

他にも賞レースはいくらでもあるのに、あれだけ大きな「M-1」という大会になると、みんな好き放題言うのだと。

でも確かに、それもまた面白さの1つなのかもしれませんよね。

僕は攻撃的でなければ、そのように発言をすることもまた、面白いことなのかなと思っています。

ただ、審査する側にはそれぞれなりの考え方があるということを忘れてはいけません。

審査員の点数を見たある人が、

こいつ、なんでこんな点数つけるんだ?

と思ったとしても、次の瞬間、

漫才で言うところの〇〇のテクニックが不足していて、ここにもう数秒欲しかった

と言われてしまったら、ぐうの音も出ないのです。(基本的に知識も経験もないのですから)

しかも審査員たちは審査に何分もかけられませんし、その場ですぐに判断しなければならないのですから、何度も動画を見ている僕らとはわけが違います。

僕が言いたいことは、「評価する側」である審査員たちに対して、ある程度の理解を示して受容することが大事なのではないかということ。

それでも、

もっと全体の意見を聞いたほうがいい

という意見も出てきます。

これに対して、やくみつるさんが反論します。

結果的に多くの人の意見を募ると、薄まってつまらなくなる

僕もまさにそうだと思いました。

結果的に大衆を集めて意見を聞くと言うのは、民主主義的ではありますが、

  1. 素人で
  2. 知識も経験もない人

たちに審査をさせたところで、それもまた結局好みになってしまうのです。

しかし「偏り」はないため、「一般的な意見」になってしまい、面白さはなくなってしまいます。

だから一般大衆の意見は募らずに、審査員たちに判断は任せて、

なぜ審査員がそういうジャッジを下したのか

と議論するくらいが、面白いのです。

評価する側は、その権利を濫用してはいけませんが、大きな舞台になるほど最後はその人の恣意的な思想も入れば、総合的な判断も入ります。

あとは評価者に任せておけばいいのです。

そこにとやかく言うこともいいですが、評価者や審査員のする判断は1つの「結果」として受け止めること。

これはどこに行っても大切な姿勢だと思っています。

評価者の判断に何かを言ってもいいが、結局は彼らのほうが専門性も高く素人とは違う。それを踏まえて評価を受け入れていこう。

好きかどうかで判断=点数はあまり関係ない

結局僕らがお店やパフォーマンスを評価する時も、「自分が好きかどうか」で判断していることが多いです。

明確な点数をつけて、

この点数以上(以下)だから、ここが良い(悪い)

と判断するのは、面倒くさいことこの上ありませんから笑、ほとんどの人が自分の肌感覚でジャッジをしています。

自身の専門的な分野や、YouTubeの動画でエンタメとしてやる分には面白いですが、好きか嫌いかの判断は、ある程度本能に任せていることがほとんどですよね。

点数やジャッジとは、結局自分の「好き/嫌い」を数値化しただけのこと。

それが「目に見えてしまうもの」になりますと、周りも反応してしまいます。

そんな「反応してしまう人たち」は、実際に「評価する側」になってみるといいです笑。

それはそれは緊張しますし、自分の知識や経験を総動員して白黒つけなければらないのでしんどいものです。

若新さんが仰るように、そもそも「評価」とは「好きか嫌いか」くらいでいいのだと、僕も思っています。

例えばフィギュアスケート、器械体操のように採点基準を細かくすればするほど、採点者側の首が絞まっていきます。

僕が学校の先生として試験監督(採点者)をしていた時は、採点基準を細かく設ければ設けるほど、先生同士で細かいやりとりが発生し、

公平性が…
それだと軸がブレて…

と、ムダな時間が増えたものでした。

そんなことより、「大体(=holistic)」でその人を評価してあげること。

もちろん、最初から「この子が好きだから/コイツが嫌いだから」と判断するのは良くありませんが、ある程度知識や経験をつけた人が最終的に判断する際は、「自身の感覚」でいいのかなと。

これまでの日本は、

  • 模試でいかに点数を取るか
  • TOEICでいかに点数を取るか

といったように、学歴社会による弊害を生み出し続けてきました。

今こそ変わる時なのかもしれません。

「点数=全て」ではなく、

適切に評価してもらえているのだ

という納得感の下であれば、あとの裁量は採点者や評価者の主観でいいのかなと。

そこに物申すのも悪いことではありませんが、

ある程度、評価の結果は担保されている

と僕は思っています。

なんでもかんでも受け入れろとは言いませんが、そうやって評価者、採点者の気持ちを汲み取った上で、順位や点数について意見を言っていくことが大切なのかもしれませんね。

学歴社会に揉まれてきた僕たちは、いつからか点数が全てだと思い込んでいた。経験者がする評価は、好きか嫌いかと言った主観でもいいのかもしれない。

おわりに

人を評価する側からしますと、基本的には「その人のスキル」を見ることが多いです。

しかし多様性が広がる現代の社会においては、ちょっとしたクセや個性のほうが注目を集めるようになりました。

「点数」とは1つの指標ですから、否定されるべきものでもありません。

ただそこに固執することなく、また誰かに好かれたくて自分のスキルを磨くのではなく、自分を貫き続けて、現代で輝いていきましょう。

それではまた!

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