こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、生徒さんからこんな質問が届きました。
この質問は「その生徒さんから」というよりは、その生徒さんの他の先生(海外の人)からの質問だったようで、
となったらしいのです。
ということで、今日は「僕が教育者として大切にしていること」について書いていきます。
レベルが低ければつまらない?
その先生が意図するものはつまり、
- 教えているレベルが低い
- テキストブックがつまらない
ということでしょう。
僕らが「日本語をゼロから教える時」のように、難しいことを話したり面白い議論ができたりしないから、つまらないと感じているのでしょう。
僕も昔はそんな感じでして、
ということばかりを考えていました。(最低笑)
要は、この外国の先生と考えていることは一緒だったということです。
しかし、教員をしていて2校目(6〜9年目)に配属された時に、「教えるということは何か」を痛感しました。
2校目の生徒たちは、それはそれは英語が苦手だったからです。
あれほど「英語を教えることは何か?」という議題と、向き合ったことはありませんでした。
結論から言えば、
ということでした。
低いレベルだろうがなんだろうが、真剣に教えるだけなのです。
僕は今、オンライン講師としていろんなレベルの生徒さんの質問に朝から晩まで答えていますが、同じ質問をされることなんていくらでもあります。
またドリルのようなテキストで、
なんて言いながら、何度も基礎的で簡単な「同じ英文」を練習したりします。
つまりその先生の言いたいことは、
ということなのでしょう。
これは「教育」から外れていることであり、ある意味で多くの人が教師をやりたくない理由の1つなのだと思います。
そこに対して、しっかりと応えることができるのか。
何度も何度も、何年も何年も、同じことを教えることができるのか。
これが「教育者」として問われている “本質” だからです。
これが僕の意見でした。
僕は公立高校に対する不満や課題点も挙げてはいますが、学校それ自体は本当に楽しみましたし、授業は最高の時間でした。
毎日休むことなく僕が教えられるのは、その外国の先生には理解できないくらい、
だからです。
これが理解できる人は、「生粋の教育者」です。
この変態的な教育観を持っていない限り笑、そういう発想(←若かりし頃の僕)しか出てこないのですね。
目の前の生徒に全力を尽くせるか
こう思えるようになったのは、恥ずかしながら2校目に赴任してからのことでした。
教育者として忘れてはならない、「教える」ということそれ自体の意味。
それについて、真剣に向き合うことができていませんでした。
確かに高難度の問題を解いているほうが楽しいですし、
と思われれば、嬉しい気もします。
一方で、それはどこまで行っても「自己満足である」ということが、後々になってわかりました。
各生徒が求めているものは、それぞれで違うのに対して、先生が、
ではダメなのです。
もちろん、先生のレベルもありますから、難易度の高い問題が解けない先生もいらっしゃいますし、それはそれでいいです。
ただ、それが「行き過ぎて」しまいますと、
となってしまいます。
そう決めている人はいいとしても、生徒さんが一所懸命「わからないこと」をわかろうとしているのに、つまらなさそうにするなんて一番やってはいけないことです。
そもそもその人は教育に向いていないと言いますか、人にモノを教えないほうがいいです笑。
まるで昔の自分を見ているようで、余計に腹が立ちましたね笑。
僕は今でも、超初心者に英語を教えます。
だなんて言いません。
どんな人でも、学んでいる時は「学習者」だからです。
そこにやる気さえあれば、どんなレベルでもいい。
今僕は他言語を学んでいるため、その気持ちがよくわかるのです。
いつでも全力で向き合ってくれる先生は好かれます。
昔の僕は、それができていませんでした。
自分の体裁(ていさい)ばかり気にしていたからです。
目の前の生徒に全力で教えること。
これが信頼に繋がり、リピートに繋がります。
そう思わせるように全力を尽くすのです。
教育者として僕がやるべきこと
僕がどんなレベルでも丁寧に教えるようになったのは、自分のミッションについて考え直したからでした。
結局僕に課された「ミッション」とは、
でした。
僕のレベルがどうこうとかではなく、
- 実際に英語を使ったり
- 英語関連の検定を通ったり
するために僕がサポートできれば、それでいいのです。
と、ある意味「ターゲティング」のようなことも、マーケティングには必要なのかもしれませんが、マーケティングの結果、「自分の意図しないレベル」がくることもあります。
当然、跳ね除けることもできますが、僕の場合は「守備範囲が広い」ため笑、ある程度のことであれば「対応可」となります。
だからどんな初心者が来ようとも、やる気さえあれば、
と、伴走することにしています。
「どんな人でも教えられるように、門戸を広げておくこと」
は、ある意味「絞り切れてない」とも捉えられますが、僕個人としてはたくさんの経験が積めることと、実績になったり直接感謝したりしてもらえますので、問題ないです。
テキストがつまらないかどうかではなく、
- その先生に教える技量があるかどうか
- 一人の生徒と向き合える覚悟があるかどうか
です。
僕も学校のテキストブックを使うのは確かにイヤでしたが笑、授業やプリントは自分なりにカスタマイズしていましたし、
と考えることで、毎日の授業がとても楽しくなりました。
人は「できた時」が、一番楽しいですからね。
真剣に教えていれば、その熱量は生徒に伝わります。
どんなに簡単なことや基礎であっても、教え方が適当であれば生徒も理解できません。
ではなく、
と言われること。
ここを目指すことですね。
- 同じことだろうと
- 簡単なことだろうと
何千回でも何万回でも教えます。
なぜかって?
僕は “教育者” だからです。
おわりに
確かに、僕の若かりし頃はそんな気持ちもありましたが、根本には、
という気持ちが常にありました。
それは今でも変わっていませんし、授業している時が一番楽しいです。
「変な欲求」(=富や名声)に突き動かされている時って、本当にうまくいかないんですよね笑。
今は目の前の授業に、毎回全力を尽くしています。
それが結果的にいい評判に繋がるんですよね。
まだまだ頑張ります。
それではまた!
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