こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
オンラインも含めて、僕はいまだに「教育事業」に携わっております。
それは僕が生粋の教育者であるからであり、教育が楽しくて仕方ないからです。
ただ、恥ずかしながら僕が教育者となったばかりの当時(25歳の時)は、教育なんておろか、

ということしか考えていませんでした。
今は、

を考えています。
今日は、「こいつなら間違いない」と思われる先生になるためにはどうして行くべきなのか。
書いていきます。
いい先生だと思われようとしないこと
まず僕が勘違いしていたことは、

と、強く思っていたことでした。
実はこうした思いを抱いている先生ほど、強い欲求ばかりがあって何もしません笑。
「認められたい」と思うことはいいことかもしれませんが、その思いが強すぎますと、
と考え始め、「偽りの自分」を演じるようになります。
まさに、僕が先生を始めた頃の感覚ですね笑。
「好かれたい」が先行している先生とは、当然のことながらそっちのほうにばかり気を取られてしまい、本質である「教育」に目を向けることができません。
大切なことは「自分が好かれるかどうか」よりも、
- その人の力を伸ばし
- その人の未来を良くできるか
ですからね。
「自分本位」である以上、教育はできません。
もちろん、そういうことでもありません。
言い方が難しいのですが、そうやって「自分を犠牲にしてまでも!」と思う気持ちも、よろしくないのです。
僕が思う、先生としての大切な気質とは、
- 自分の生きたいように生きつつも
- 他者からよく見られようとしないこと
であり、「自分がどう見られているか?」だけを気にしているような生き方ではありません。
逆説的ですが、そこ(見られ方)に注力していない先生ほど、好かれると思っています。
生徒のためを思うなら、自分の見え方なんて関係ない。
嫌われ役を買ってでも、ちゃんと生徒に指導できる姿勢が必要なのです。
必ず全力で教えること
僕が「先生」として人に “ちゃんと” 教えられるようになったのは、教員を始めてから5〜6年経ってからでした。
もちろん、その年その年で感謝されたこともありましたし、よかった年度もあります。
ただ振り返ってみれば、やはり教員としてのキャリア9年の中では後半のほうが、

と思っています。
特に後半から意識していたことは、「ちゃんと教える」ということでした。
と思われそうですが、要は「当たり前」のことであって、
- 授業準備して
- 生徒に寄り添って
- 時間をかけてでも丁寧に
教えるという、ただそれだけのことでした。
逆に言えば、それまではどこか鼻を高くしていたのだと思っています。
生徒のみなさんが望んでいることは、
なんかではありません。
キレイごとに聞こえるかもしれませんが、
- 泥臭く
- 熱心に
- 時間を割いて
- 丁寧かつわかりやすく
教えてくれるような、もっと「地味な先生」なのです。
昔の僕は、「これ」をイヤがっていました。
自分のキャリアや才能に自惚(うぬぼ)れて、適当に授業していました。
今は、短い時間でも丁寧にわかりやすく教え、「その生徒さんに寄り添うこと」を意識するようになったと思っています。
それぞれ抱えている悩みや問題点は違いますから、

と考えるようになったというわけです。
全力で一つ一つ丁寧に教えることのほうが、実は長い目で見て「人気のある先生」となります。
という「信頼」がつくからですね。
自分の見え方なんて二の次、三の次であって、
というご意見が最もな意見なのです。
結果的に生徒に好かれるようになることは以前より多くなりましたが、そこをゴールにしていなかったからこその結果なのだとも思っていますね。
間違いない先生になるために
こう思わせるためには、とことん全力でぶつかってゆく必要があります。
特に僕は先生だったこともあって、生徒同士のトラブルに迅速に対応すべく、何かあったら駆けつけるということが「体質」となっていました笑。
僕が思う「間違いない先生」とは、先述したように、
- 自分の人生を生きながらも
- しっかりと生徒と向き合う人
だと思っています。
ただただ生徒から好かれようとしている先生は、何も本質が見えていません。
これは別に先生に限ったことではなく、会社や組織においても同じですよね。
体裁(ていさい)をいくら整えたとしても、
と見透かされてしまうからです。
いつでも自分を見失うことなく、しっかりと自分自身のことも大切にできる人。
これが求められるべき姿だと思っています。
僕が授業において「間違いない」と思わせるようにしているのは、
- どんなレベルの生徒にも丁寧に授業し
- 一方で当たり障りのない言葉を並べない人
になるようにしています。
生徒の話を聞くときに、
と、優し「そう」にしている人とは、気をつけた方がいいです。
寄り添うことと「自分には何かしてあげられる!」と勘違いすることは、全く別の話です。
「誰にでも優しい先生(上辺)< 常に真剣に向き合ってくれる先生」
なのですね。
これは僕の短いながらも、9年間歩んできたキャリアから出した答えでした。
真剣にぶつかれる人は、生徒からも真剣な思いが跳ね返ってきます。
僕も教員時代は、生徒たちから色紙をもらったり、何かをプレゼントされたりすることを「最高の瞬間」として思い描いていました。
でも本来は、そんなことどうでもいいのです。
確かに感謝はしますし、嬉しいです。
しかし、

という信念を持つことです。

と、後半になってようやくわかりました。
それからというもの、
と思われるよう、努力をするようになりましたね。
おわりに
こう思われるためには、実は「チヤホヤされる先生になりたい」と思わないことが大事です。
逆説的ですが、まさにこれが教員の本質なのだと思っています。
今日もまた、僕は全力で教えていきたいと思います。
それではまた!
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