こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
ここ最近は、僕が海外に行くということで、多くの友人が「お別れ会」を開催してくれました。
そのこともあってかとても緊張してしまい、朝早くに目が覚めることが多くなりました笑。
とにかく不思議だったのは、
ということでした。
僕は何者でもなく、ごく普通の高校教師です笑。
しかしなんとなくですが、僕はわかりました。
と。
お別れ会を開催してくれた人たちから、
と怒られそうですが笑。
今日は「僕のことを好きでいてくれる人たち」に向けて書いていきます。
変わりたいと強く願うこと
僕はずっと、
「人からどう見られているのか」
を気にして生きてきました。
そこには多少なりとも、見栄やプライドもありました。
自分を「張りぼて」で着飾ってしまいますと、「本当の自分」を出すことはできません。
以前の僕は、人から嫌われたくないと願い、縮こまって過ごしていました。
大きく変わったきっかけは、「離婚」でした。
当時はわかっていませんでしたが、僕の独りよがりな生き方や、未熟さゆえの結果でしたから、後々少しずつわかってきました。
人生はみな初心者ですから、今はどうこう思っているわけではありませんし、自分を卑下しているわけでもありません。
ただ、そこでわかったことは「自分はTAKERだった」という事実でした。
そこから「どうやったら人に好かれるか」について必死に考えました。
- 書籍を読む
- 動画を見漁る
などして、たくさんインプットするも、すぐに答えは出ませんでした。
こればかりは、実践する他なかったのです。
最初は小さかったのですが、
- 同僚にお土産を買ってみたり
- お店やサービスにお金を払ったり
と、「お金」で始めてみました。
だんだんエスカレートしていき笑、自分のできる範囲かそれを少し超えるくらいで、
と思うようになりました。
しかし、ただ与えているだけでは何ともしっくりきません。
そこで、
- 人に会いに行ってみたり
- ブログを書き続けてみたり
- 英文法やダンスを教えてみたり
と今度は、
と思うようになりました。
それも「全力で」です笑。
- 絶対に休まない
- 時間がないと言い訳しない
- ツラくてもしんどくてもやる
ちょっと精神論みたいで心配になるレベルですが笑、なんとしてでも変わりたかった自分がいたのです。
そこにウソをつきたくはない。
半ば「実験」のような感覚でした。
とにかく続ける「マラソン」がスタートしました。
休むことなく、毎日、毎週、毎月…
僕が驚いたのは、この2023年の3月になった時でした。
人に愛されようとしてはいけないと思った
僕が大切にしていたことは、
「誰かに好かれようとしなかったこと」
でした。
実はそれは、きっかけに過ぎません。
自分のできることを続ければ続けるほど、
- 愛されたい
- 好かれたい
という気持ちはなくなっていきました。
そう考える暇もないくらい、人に愛を与えることで毎日が忙しかったからです。
仮に僕が、
と思っていたら、「今の僕」にはなれていなかったと思っています。
「純粋なGIVER」は、僕がずっと目指していた形でした。
その生き方を教えてくれたのは、「本当に豊かな人たち」の生き方でした。
それからも、
と思い込みながら生きていました。(今も若干思っていますが笑)
しかし、そうは問屋が卸さない笑。
自分の知らないところから、
- 一度会いたい
- また会いたい
と言われるようになりました。
それでも僕は頑(かたく)なに、
と、心に決めていました。
それは、どうしても変わりたかったからです。
人の目も、どう思われているのかも、絶対に気にしないこと。
それは例え良いことであっても、です。
舞い上がってしまったら、今までの自分の信念に反してしまうから。
自分を褒めてくれるような言葉であっても、調子に乗らないこと。
- 謙虚に
- 愚直に
- 献身的に
続けていくこと。
と誓っていたのです。
ただし、自分を好きでいてくれる人たちに目を向けること
なんとか目を背け続けてきた、「自分を好きでいてくれる人たち」。
その人たちを無視することが、僕にはどうしてもできなくなってきました。
それは僕の信念に反することだと思っていたのですが、そんなことはありませんでした。
僕が与え続けてきた愛は、しっかりと伝わっていたからです。
今でも信じられてはいませんし、やはり僕は、
と思っています。
ただ、僕の近くに、僕の目の前に、「僕を好きでいてくれる人たち」がいることに、やっと気づくことができました。
と。
その愛に応えることもまた、僕のやるべきことだったんだなって。
初めて、そう感じたのです。
僕はずっと、「愛を受け取ること」ができませんでした。
それは、過去の自分に対しての「罪悪感」があったからでした。
- 調子に乗ってしまったら
- 傲慢になってしまったら
いつかどこかで、過去の自分に戻ってしまう。
また昔の自分に戻って、何か大切なものを失ってしまう。
それが本当に怖くて怖くて、無意識のうちに自分の目の前にある愛に気づこうとしていませんでした。
でもその愛を「真正面から誠実に受け止めること」もまた、僕に課せられた課題だったのですね。
僕は不器用だから、目の前の人を愛することに必死になり過ぎていて、大事なものを見失っていたのです。
- 与えた愛を返してくれる人たちと、真剣に向き合うこと
- 自分のことを好きでいてくれる人たちに対して、しっかりと感謝をすること
事実から目を背けることは、ストイックでもなんでもありませんでした。
その「愛の相互作用のバランス」が崩れてしまっていたら、もしかしたら何かが壊れていたのかもしれません。
僕が目を背け続けてきたはずなのに、そこにはちゃんと「愛を返したい人たち」がいました。
ずっとずっと、そう思って生きてきました。
しかし、それではダメなのです。
長く背負っていた十字架をやっと下ろすことができたのは、目の前にいる人たちのおかげだったのですね。
おわりに
- 過去の自分がいなかったら
- 変わろうとした自分がいなかったら
今の僕はいない。
一方で、
- 過去から変わろうとした自分がいたから
- 愛を与えようと必死に生きてきた自分がいたから
今の僕がいる。
そう考えたって構わないのです。
自分のそばに、自分の目の前に、自分を愛してくれる人がいるということは、奇跡以外の何ものでもありません。
その愛を受け取らなければ、また与えていくことはできないでしょう。
とはいえ、与え続けたからこそその愛が返ってくることを実感することができました。
- 生徒にも
- 恋人にも
- 友人にも
- 家族にも
また、愛を与えていきましょう。
ただし「キャッチボールをすること」だけは忘れずに、ね。
それではまた!
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