人も動物であるからいつか終わりが来る【常に考える生と死】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、現在教員である生徒さんと話していますと、どうやら教え子が亡くなったらしく、しかも本人の判断での最期だったとのことでした。

彼はまだ若かったようでしたが、いろいろな思いから、そうした判断をしたのだと思います。

僕にとっては遠い存在ではありますが、とても悲しいことです。

しかし、僕は以前に比べて「死」をより身近に感じるようになっていました。

それもまたその人の人生であり、誰も止めることはできなかった

僕はそう思っています。

今日もまた「命」について考えていこうと思います。

僕らにできることなんてあまりない。自分にできることを毎日続けながら、常に最期を意識しておこう。

僕らにできることなんてほとんどない

僕が教員時代だった頃も、生徒を失ったことがありました。

また、直前に骨折をして修学旅行に行けなくなった生徒がクラスにいた時も、

先生たちにできることなんて、実はあまりないんだよなぁ

とすら思っていました。

私にも/僕にも、何かできたことはなかったか?

と後悔することもありますが、僕はいい意味で、

それは仕方のないことだった

と割り切ることにしています。

  1. 全力を尽くし
  2. 伝えることを伝え
  3. その人とたくさん話した

のであれば、僕らにそれ以上できることはありません。

むしろ「自分には何かできたはずだ」と思うほうが、僕はよっぽど傲慢だと思っています。

気を悪くしないでほしいのですが、これは一方で「自分について」考えれば簡単なことです。

例えば、あなたが大きな決断をしようとしている時に、多少なりとも友人や家族に相談はするかと思いますが、最終的な判断は自分で下しますよね。

その結果、間違えたり、失敗したりもするでしょう。

その時に周りの人々は、どう思うでしょうか。

最終的には君の判断を尊重するよ

と言うのではないでしょうか。

もちろん、自ら命を絶つことは前提としてダメです。

それを止められるのなら止めたいのですが、それができないのは、最終的には本人がそう決めてしまうからです。

にっちもさっちもいかなくなった時に、人は最終手段をとってしまう。

確かに、「僕らの一声」で救える命がないわけでもないです。

だから声かけもしたいですし、命は大切にしていきたい。

ただ、それがいつでもできるほど、個人の自由の意志を止めることは難しいのです。

人の判断を止めることは、誰にでもできるものではない。決して悲観的に言っているのではなくて、「そういうもの」なのだ。

人間も動物の一種

以前にも書いたように、僕はここ最近ですと、

人間も結局は動物でしかないんだよなぁ

と思うことがあります。

僕らが肉や魚を食べて生きてきたように、

  • 感情
  • 理性

があるとしても、人間もまた動物であるという事実は否定できません。

排泄だってしますし、性交だってします。

出産があるということは、当然ながら「死」もあるわけです。

人間の世界で生きていますと、どうしても「クリーン」なイメージがついてまわり、

動物界の中でも、自分たちは特別である

と勘違いしがちです。

特に日本は、世界でもトップの清潔さを誇っていますから、日本人ほどそうした「アナログ」に対して距離を置いている人は多いです。

一方で、生物系やキャンプ系、狩猟系などがYouTubeで人気を博しているように、僕らが求めている生活もまた、野生味にあふれた非常に原始的な部分であることも否めません。

この事実を受け入れられていない人ほど、死を悪い意味で「特別扱い」しようとします。

こんなはずじゃなかった
そんなことはありえない

と。

僕ですら、この命が明日にでも絶えてしまうかわからないのに、です。

僕らが毎日食べている「動物の肉」だって一緒です。

ずっと続くであったであろうその命を「いただく」ことによって、僕らはまた今日を生きていくことができます。

僕らが普通に命をいただいているのにも関わらず、人間だけ特別視することは地球が許さないことでしょう。

僕は「命」をこのように捉えるようにしています。

みなさんはどう考えていますか。

人間だって、どこまでいこうと動物の一種に過ぎない。その命が尽きることはある意味で世界の道理なわけだ。それを否定することはできないのだ。

押し潰されずに次へと進むこと

相手の先生はちょっとばかり落ち込んでいましたが、僕も一緒になって悲しむわけにもいきません。

かといって偉そうに、

自分はたくさんの経験をしてきたのだ

と、説教を垂れるわけでもありません。

上記に示したように事実として認識し、「明日は我が身」だと思っておくことです。

いつ「僕のいない世界」という世界線が始まるのかはわかりませんし、ふと大事な人を失ってしまう時が来るやもわかりません。

それでも、

僕らにできることは、ただただ自分の人生を、必死になって前に進めることだ

この考え方が、いつも僕の毎日を後押ししてくれます。

以前の僕は、そうした「負の感情」に支配されていたことが多かったです。

それはどこかで、自分の人生を「誰よりも特別なものだ」と勘違いしていたからなのかもしれません。

命を大切にしなくてもいいとか、そういうことを言っているのではありません。

ただ、僕らの世界にも「死」は当然のように存在し、

それはいつ誰に訪れるかなんてわからないことだ

と言っているのです。

みなさんだって(僕だって)、世界のどこかで亡くなっている人を「遠いどこかの国の話」と思っているじゃないですか。

それでも、そこにわざわざ思いを馳せている人なんて、なかなかいません。

人間とは「そういう存在(=地球上の動物)」であり、それでも世界は進み続けていきます。

  • 身内
  • 友人
  • 同僚

など、近しい存在が消えて初めて、死について考え始める人もいるのではないでしょうかね。

そこに思いを馳せたり、今の自分について改めて考えることはいい機会だと思います。

一方で、そこでずっと立ち止まってしまい、現実を受け入れられないままでいますと、

それが果たして自分の人生なのだろうか?

と、逆説的に「生」について考えるようになります。

この繰り返しを、自分の中で一定数まわした上で、

もう前に進むしかない

と、結論を出さなければならない日が必ずきます。

しんどいことですし、誰だって簡単に拭(ぬぐ)い去ることのできるものでもありません。

それぞれのトラウマとは程度が違いますから、「さっさと前に進め」と軽々しく言うこともできません。

ただ、事実として今僕らが生きている世界は、何が起ころうとも進み続け、「今を生きている人たち」がどんどん時代を作っていきます。

  1. 一度しっかりと考えつつも
  2. あまり深く立ち入り過ぎずに次へと進む

僕はこの感覚を持つようにしていますね。

精神的に辛くなることなんて、人間なら誰しもがある。その「程度」はそれぞれ違うからこそ、それぞれが乗り越えてゆくしかない。

おわりに

以前に比べてここまで客観的になったのは、さらにここ1〜2年での出来事でした。

こうして4年以上毎日ブログを書き続けてきたことで、自分なりに「いい意味で」諦めがついたと言ってもいいのかもしれません。

みんなが思う「タブー」についても、しっかりと考えてゆくこと。

別に科学的にどうだとか、客観的に考えるとどうだとか、そういった難しいことではありません。

日頃から身近に考えていきたい話題なのです。

みなさんはどう考えていますかね。

それではまた!

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