こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
僕は30年以上「この世」に生きてきましたが、失ってきたものもたくさんありました。
幸いなことに、「悲惨な人生」というほどではないかもしれませんが、ツラかったこともありました。
「失って初めて、その尊さに気付く」
とはよく言われることですが、僕も「失ったこと」でたくさん泣いたものです。
もちろん「お涙頂戴」の記事を書きたいわけではありませんので、できる限りポジティブに書いていきます。
僕は何を失い、何を感じ、その後どうしようと決意したのか。
書いていきます。
ものごとに対する情熱
僕の生活と言いますか、「性格」が大きく崩れたのは受験期でした。
トップの大学を狙っていたのですが、それに見合う実力もないまま勉強もはかどりませんでした。
難しい参考書を買っては、まるで「ちゃんと勉強している」かのようなフリをしていました。
高校時代は「器械体操部」に所属してもいましたが、なかなかやる気も出ず、情熱を持てずにいました。
結果、
- 浪人生活
- 中途半端な部活動
を経験しました。
それもこれも、ものごとに一所懸命取り組む「カッコよさ」に気づけていなかったからだと思います。
勉強は高校2年生まで一所懸命やっていましたが、なぜか高校3年生で「見栄/他人の目」を意識し始め、
- 学校に来て自習室にいる自分
- 難しい参考書を解いている自分
ばかりを見せるようになりました。
完全に自己満足ですよね笑。
本当はもっと、「自分のやるべきこと」に集中しなければなりませんでした。
なぜオレはあんなムダな時間を……
バスケ漫画の王道、スラムダンクの人気キャラである三井寿が、不良になってバスケから離れた後に発する言葉です。
しかし彼はそんな自分と向き合い、再び青春の舞台に舞い戻ってきます。
僕も勉強・部活において不甲斐ない時代があったものでした。
今では英語にもダンスにも一所懸命になることができ、「あの時代に失った情熱」を取り戻すどころか、今までで一番燃えているとさえ感じています笑。
若かりし頃は、何が大切で何がカッコいいのかよくわかっていませんでした。
その時に自分なりに選択したことが、今となっては「カッコ悪かった」と思えているだけ、マシなのかもしれません。
こう思えている今があるのは、過去の自分がいたからこそですね。
大切な人
僕は30代にして「離婚」を経験しています。
今の時代では、別段不思議なことでもないのかもしれません。
「別れた」というだけであり、「失ったもの」と表現するのは少し違うかもしれませんが、ご容赦ください。
そこで学んだことは、本当にたくさんありました。
僕は僕なりに一所懸命やっていたつもりですが、一方で自分の身勝手さや未熟な考え方が露呈していたことが、後になってわかったことでした。
自分にとって大切にしたかったはずの人を、いろんな場面で傷つけていたのです。
これもよく言われることですが、
「近づけば近づくほど、相手を傷つけてしまうもの」
ですよね。
「人を愛す」とはとても難しいことであり、当時の僕は「好き」であればいいと思っていました。
たくさん考えましたが、一朝一夕でわかるような答えはありませんでした。
その後は「本当に豊かな人生を歩いている人」たちの考え方に触れるようになり、
と思うようになりました。
多くの書籍と人に触れたおかげで、今では「心から人を愛すこと」ができるようになりつつあります。
と考えることはしていません。
それは「〜たら、〜れば」の話であり、今だからうまくこなせることも、当時では気づかなかったことなんてザラにあるからです。
離婚したことを「失敗」と捉える必要はありませんが、大切な人を失った代償は大きかったです。
しかしその経験を経て、「今の自分が大きくいられている」と思っています。
ある意味、失ったことで本当に大切なマインドを手に入れることができたのかもしれませんね。
教え子
あまり細かいことは書けませんが、僕は初任の時に生徒を失っています。
その時ほど、職員室で泣いたことはありませんでした。
あの日は休日だったため、職員室には自分と教頭先生しかいませんでした。
大泣きする僕の背中を、優しくさすってくれた教頭先生の温かさを、今でも覚えています。
「先生」とはとてもやりがいのある仕事でして、いつも生徒たちから元気をもらえるからこそ、僕は先生を続けてこられたのだと思っています。
一方でそのようなツラい経験は初めてでしたので、当時はショックからなかなか立ち直ることができませんでした。
気持ちを紛らわすために死ぬほど飲んで泥酔し、タクシーで病院まで運んでもらって点滴を受けたことを覚えています。
人と関わる仕事をしている限り、誰もがそのような経験をする可能性を持っています。
まだ若かった僕は、若いなりに命の尊さについて考えていました。
しかし答えは出ないまま、時が過ぎるのをただ待つだけでした。
考えても考えても、わかりませんでした。
出どころは諸説ありますが、以前「AC」の広告で使われたキャッチフレーズがあります。
あなたが無駄に過ごした「今日」は
「昨日」死んだ誰かが
死ぬほど生きたかった「明日」なんだ
よく引用される言葉ですね。
僕は今こうして生きることができていますが、誰かの犠牲の上に成り立っている命というわけでもありませんし、「だから感謝して生きよう」と改めて思うわけでもありません。
人の命はいつ消えてもおかしくないものでして、事故や事件に限らず、自分で選択して命を絶つ人もいます。
それでも、「死」を特別視する必要はありません。
自然界の食物連鎖があるように、人間だって失くなる時は失くなってしまうものだからです。
今でも、
そう思うと動揺してしまいますが笑、以前よりも現実を受け入れる体勢(耐性)でいられています。
僕が当時学んだことは、正直なところ何もありませんでした。
ただただ、「生」や「死」について考える機会があったに過ぎません。
でもその機会があったからこそ、今を力強く生きることができています。
失ったものは大きかったのですが、その経験があったからこそ、今「目の前の生徒」を大切にできているのかもしれませんね。
とはいえ、「大切にする」とは「手を焼いてお世話すること」ではありません。
その生徒の人生を、生徒自身の手で決めさせることです。
それと同時に、「無責任」にならずに支えてやること。
難しい距離感ですが、過去の経験が少なからず僕の「教育観」に表れています。
これからも、人生の中で多くのものを失っていくかもしれません。
しかし、
と思うのではなく、目の前にいる生徒と一瞬でも長く青春を共有していきたい。
そう、強く思っています。
おわりに
僕が失ってきたものは大きかったです。
しかしそれらがあるからこそ、今の僕があると言ってもいいでしょう。
人それぞれ壮絶な過去もあれば、何ごともなく順風満帆と呼べる人生もあります。
そこに優劣はなく、「悲惨な人生を送ったから偉い」というわけではありません。
過去を振りかざすのではなく、それぞれが「失ったもの」にしっかりと向き合い、どう人生を変えていくか。
自分の過去や経験は、自分で消化するしかありませんから。
今日も一所懸命生きていきましょうね。
それではまた!
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