こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、生徒さんと話していました。
ジェンダーの話になり、
と生徒さんは話していました。
僕は、

と、真っ向から意見をぶつけしました笑。
また、
ということに対して、中学生の生徒さんが「そうした方がいいのかもなぁ…」と言ったので、それに対しても僕は「NO」を突きつけてしまいました。(厳しい先生だ笑)
今日は「日本が合わせる必要はない」ということを書いていきます。
世の中に性は2つしかない
世の中に性は2つしかない。
こういうことを言いますと、
と、鬼の首を取ったように言ってくる人がいます笑。
実は僕も、教員をやっている時はジェンダーに悩んでいる生徒たちも見てきました。
だから当事者ほどではないにしろ、そこら辺の人たちよりは多少なりとも事情を知っているつもりです。
え?
その子たちが傷ついているじゃないかって?
違います。
世の中に性は2つしかありません。
“その上で”、精神疾患として性同一性障害があったり、自分はもっと「男らしく/女らしく」ありたいと思ったりして、
と、自分の生物学的な性と逆のことを考えることそれ自体は自由なことです。
女装/男装をしてもいいですし、性別が男の子であっても女の子らしく着飾ったり化粧したりしてもいいです。
というか、僕に止める権利なんてありません笑。
ただし、「性が2つしかない」という事実を変えることはできません。
とトンデモ理論を押し付けられたら、世界の常識がひっくり返ってしまいます笑。
その人の「あり方」は尊重してあげたいですが、生物学的な常識を “気持ちや勢いだけで” 叫び、他人に自分の正義を押し付けることは違います。
僕も「押し付けること」自体はキラいですしね。
だから、ここをしっかりと考えておかなければなりません。
- 生物学的に性は2つしかないが
- 自分らしくあることは自由でいい
ということ。
そこに精神的なツラさがある人がいることも、周りのみんなだって多少はわかっています。
そういう人たちはマイノリティーとして扱われますし、生きにくい世の中だとは思います。
しかし逆にマイノリティーの人が「思いっきり権利を行使」したとしたら、今度はマジョリティーから反発がきます。
だから、そこにマジョリティーである人たちが理解を示し、うまい按配でやるのがいいのかなと。
元も子もない月並みな表現ですみませんが、少数派を弾圧しろなんて言っていませんしそんなことは日本で起こっていません。
ただ、
という論には、誰も反対できないのです。
合わせる必要なんてない
他の生徒さんと話していた、ベジタリアンやビーガンの話。
一緒に読んでいた記事は、「海外の人が」日本に来て思うことというものでした。
この手の問題は、結論から言って、

一択なのです。
では、そんな人たちに逆に聞きましょう。
みなさんはお肉が好きですよね。
インドなどイスラムの国家では、レストランでなかなか肉は出てきません。
そこで日本人として叫んでみましょう。
と。
インド人たちはポカンとするでしょうね笑。
と。
先述した「日本はもっと多様に対応すべき」という意見が、いかに無理難題であるかがわかります。
みなさんもこう思うはずです。
と。
これは酷い話でもなんでもありません。
ごくごく普通の、当然のことなのです。
先日も、学校で先生をしている生徒さんが、僕の英語のイベントに来てくれました。
僕は英語講師なのでハッキリ言いました。

と。
なぜ、僕らが英語をしゃべらなければいけないんですか。(本当に英語の先生?笑)
もちろん、しゃべりたい人や僕みたいな「言語に興味のある人」は勉強したらいいです。
しかし海外から日本に来ておいて、「お前は英語をしゃべれ!」ってあまりにも横暴じゃないですか。
学校側もそういうスタンスではないと思いますが笑、興味のない人なんて英語はやらなくていいんです。
ここは日本です。
相手の文化に、無理に合わせる必要なんてないのです。
優しいことと甘いことは違う
さて、僕がこの記事で言いたいこととは、
もっと日本人は、
と言っていいということです。
冒頭の「性の話」にも繋がりますが、

と言っているのではありません。
僕も外国の人がいたら英語で助けることはありますし、ビーガンの友人がいたら気も使います。
それは相手が下手(したて)に出てくれて、お互いをリスペクトできる状態に限ります。
どんな状況だって、
と上から言われたら、助けたり関わりたいとは思いませんよね。(「なんだこいつ状態」です笑)
何度も言いますが、その人が「こうありたい」という「その人の聖域」を侵(おか)しているわけではないのですから、お互いが “いい按配で” 生きていくのが仕方のない落とし所です。
そもそも、
- 英語を話せるようにならなければならない
- 多様な性のあり方を認めなければならない
- ビーガンのための食を準備しなければならない
という主張を通したいのであれば、
- ここでは日本語しかしゃべりません
- 性は2つしかないと思うのですが…
- 私は肉が好きなので肉を提供してくれませんか?
という要望にも、応えてくれるということですよね。
これ認められないのであれば、フェアではありません。
そしてそもそも、その国の(多数派の/昔から根付いている)文化が、その国には必ずあります。
多様性を認めるのであれば「その国のあり方」を認めなければ、言っていることが矛盾してしまいます。
日本人はとても優しい人が多い。
だからこそ頑張って英語を話そうとしてくれますし、いろんな配慮をして食を提供したり、学校で多様性の授業を(良くも悪くも)したりします。
ただ、それが「甘さ」として捉えられた場合、相手はつけあがります。
と。
それは優しさではなく、迎合だったりご機嫌取りだったりするのではないでしょうか。
そういう人を見ていますと、吐き気がします。

と。
他人の人生を生きたいのであれば好きなように生きたらいいですが、それで失われるものがあるということも、知っておかなければなりません。
おわりに
こういうことを書きますと、
と、短絡的に捉えられることがあります。
僕はいつでも、記事内に「じゃあこういう場合はどうするの?」と書いています。
そこを無視してはいけません。
- 自分の意見は通そうとするが
- 相手の意見は聞こうとしない
こういう人を「わがまま」と言います。
それを許すことが教育ではありませんし、それは単なる甘やかしです。
世の中には文化やルールがあるからこそ、成り立っているものがあるのは子どもでもわかること。
厳しくすべきところは厳しくしていきましょう。
それではまた!