教育者として必要な力はその人の性格?【確かな技術も持ち合わせる】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、英検がありましたので、飛び込み的な感じで何度も受講してくれた方がいました。

一段落したのでまた授業を取ってくれたのですが、

ここ数日間で、とても勉強になりました

と、感謝の意を伝えてくれました。

僕が「人に教えること」がとても好きな瞬間は、感謝される時です。

仕事の本質でもありますし、その対価としてお金をいただいていますからね。

もちろん、今となっては昔ほど「感謝」を求めていませんけれど。

むしろ、

やって当たり前です

というスタンスです。

今日は「教育者として」について、再び深く書いてきます。

教育者にもっとも必要なのは生徒目線。そして技術もあることだ。

うまくいかなかった教員時代

何度か記事にしてきましたが、僕の昔の教員としての資質は、疑わしきものでした笑。

  1. 大した知識も経験もなく
  2. プライドだけ一丁前に高い

という、典型的な若者でしたね笑。

みなさんにも経験があるかと思いますが、若い頃とは、

なんでもできるんだ!私/俺が一番正しい!

と思っている人が多いです。

僕もなまじ勉強してきたため、

  • 同僚に負けたくない
  • 生徒からバカにされたくない

と、必死でした。

でも残念ながら、度量(=器)の小さい人ほど、そうした他者評価ばかりを気にします笑。

当時の僕には、「若さ」以外何も強みはありませんでした。

進学校から教育重点校(勉強が苦手な子が多い学校)に配属されますと、生徒との「溝」は一気に開き、

あの先生なんなん?

と、嫌われることも多々ありました。

人間誰しも全員と仲良くやっていけるわけではありませんが、当時の僕は完全に「悪い意味で」嫌われていましたね。

だって原因が明らかなんですもの。

少しずつ生徒目線に立って話をするようになりますと、自分を縛っていたプライドが徐々になくなっていくことが分かりました。

それくらい、どこかで「気を張っていた」のでしょうね。

余裕も出てきますと、

本当に勉強しなきゃな

とも思えてきましたしね。

でもそんな過去があったおかげで、今こうしてみなさんと会うことができていると言っても過言ではありません。

それから少しずつ、「教育者とは何か」ということを考えるようになったのです。

過去の教員経験はひどいものだった。しかしそこで得た生徒からのダイレクトな意見は、僕の教育観を大きく変えたのだった。

人に寄り添える人であること

「生徒の上に立つこと」だけを考えていた僕が変わったのは、生徒との不和が原因でした。

そのおかげで、

  • 自分の弱みを見せること
  • つまらないプライドを捨てること
  • 悩みを共有し一緒に学校生活を送ること

など、多くの気持ちの変化が訪れました。

この間も、

先生はなんでそんなに教えるのが好きなんですか?

と生徒さんから聞かれたのですが、

生徒から教わることが多いから

と返しました。

教育者として、

  1. 生徒さんとの会話(=授業)をし
  2. 一緒に明るい未来に向かって成長すること

が、僕の何よりの幸せなのです。

感謝されることは嬉しい反面、感謝されたいがために授業をしていたら、それは順序が逆とも言えます。

  1. 生徒に全力で教えるから
  2. 僕のその献身性に感謝してくれる

という順序が正しいのです。

その中で一番大事にしていることは、「生徒さんのニーズに合わせる」ということです。

一方的に知識を伝達して悦(えつ)に入ることと、わからないところをダイレクトに応えてあげることでは、全く別の次元の話です。

学校で先生をしていた頃は、

いかにうまく授業をできるか

と、そんなことばかりを考えていました。

もちろんそれも必要な技術ではありますが、やはり「人柄」や「生徒目線に立てるかどうか」といった要素も必要になってきます。

このような立場に立てるようになってから、劇的に学校や授業が楽しくなってきました。

今でも大人の学習者たちに対して丁寧に教えることができているのは、「できなかった頃の自分」をいつでも思い返すようになったからです。

  1. たくさん間違ってもいいし、
  2. 時間をかけて発話していい。
  3. そして丁寧に指摘して、あげて褒めてあげる。

先生なら当たり前にできるものだと思われますが、実際に現場に出ますと、

  • 生徒の問題行動
  • 同僚とのトラブル
  • 校務などのストレス

から、そんな余裕はなかなか生まれてきません。

そのストレスをそのまま生徒にぶつけても、何も生まれないどころか、

この先生、キラい!

と言われてしまいます。

だから僕は、

自分だってできなかった頃があったじゃないか

と言い聞かせ、じっと待つようになり、生徒の成長を一緒に喜べる人間となることができました。

これが教育者としてのあり方であり、今の僕の姿とも言えます。

簡単なように見えて、なかなか簡単にできないこと。

僕はいつまでも、生徒の目線に立つことを忘れないようにしていきます。

教育者として大切なことは上に立つことではない。一緒に成長を喜び、ともにその喜びを分かち合うことなのだ。

確かな技術と努力

一方で、僕が大事にしていることは、

実はマジで英語の知識と経験がある

と思われるべきだ、ということでした。

「裏でものすごく努力して勉強する」ということですね。

先生も人もそうですが、優しさや人柄の良さだけでは、なかなかできないこともあるからです。

もちろん、そうした「先天的な能力」にも需要はありますが、

本当の本当に、本物になる

というのであれば、その道を突き詰めていくこともまた、必要なのは当然のことです。

僕は英語をずっと勉強してきて、

どうしたら日本人が、日本で勉強してしゃべれるようになるのか

と、“自分なりに” 研究してきました。

  • 自分も成長するからこそ
  • 自分なりに教育を突き詰めるからこそ

生徒さんから支持も得られるようになります。

正直、すごく勉強した後のほうが自分に自信もつきましたし、同時に謙虚にもなりました。

その後のほうが、高校の生徒たちや大人の生徒さんたちから、より信頼されたり頼られたりするようになったのは言うまでもありません。

要は努力をし続けていなければ、その人の自信も信用も、どんどん下がってきてしまうのです。

僕はどこかで、

完璧な先生こそが信頼を得られるんだ…ネイティブではない僕はダメなんだ

と思っていたことがありました。

でも大切なことは、

  • 同じ日本人として英語の悩みを共有する
  • 自分も努力し続けて常に英語について考える
  • しゃべれる/読めるようになるまでのロードマップを伝える

といった、地道でネイティブもやりたくないようなことを、純日本人である僕が歩いて示していくことでした。

現在は他言語にも力を入れていて、勉強を始めています。

少しずつしゃべれるようになっている言語も出てきて、それがまた形として示せたらなと思っています。

僕が歩んできた「教育の道」とは、一言では表せないくらい、たくさんの要素が必要とされる分野です。

そんな難しい道でも歩き続けられるのは、僕が生粋の教育者だからだと思っています。

努力をしていなかった時は、何もかもうまくいきませんでした。

しかし努力を始めてからは、いろんなことがうまくいくようになりました。

いつでも大切なのは、誰よりも頑張ることです。

それこそが教育者であり、だからこそ生徒の目線に立つことができるようになるのですね。

教育をする側にも努力が必要だ。それをやめた瞬間から、人は離れていくということがわかったのだ。

おわりに

僕は人に教えてゆく中で、多くのことを経験してきました。

いけすかない生徒や、しょうもない先生にも会ってきました笑。

僕自身だって、まだまだ未熟な点はたくさんあります。

だから努力し、成長していくのです。

これからも頑張り続けますね。

それではまた!

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