常に他の事象を考えるようにする【いろんな場合を想定すること】

雑談

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

友人たちといろんな話題について話していますと、様々な意見があることがわかります。

じゃあこの場合はどうなる?

と、「〜たら/〜れば」を想定して話すことは面白いことです。

特に僕自身の意見と合わない人と会うことなんて、山ほどあります。

そんな時に、自分の意見を擁護するだけでなく、

じゃあ僕がこうこうこう言ったら、どうするのか?

という疑問を、常にぶつけるようにしています。

今日は話題になっている話から教育の話まで、多岐に渡って議論をしていきます。

いろんな話題について、回答は一つではない。だからいろんなことを想定して話せるようにしよう。

教育で報酬は必要か?

先日も、友人たちと話していたら、

「宿題をやったら〇〇円あげる」とか「テストで〇〇点を取ったらお金がもらえる」という教育はどうだろうか?

という話になりました。

モチベーションに関しては、外的な要因の場合はあまり効果がないとされています。

「好きこそものの上手なれ」ではありませんが、やはり内発的な動機(=内側から出るエネルギー)には敵(かな)いません。

よくある意見としては、

一つのお金の教育としてはいいだろうけれど、額や年齢にもよるかも…

といったところでしょうかね。

ここに答えはないと思っています。

いやいや笑。そうやって報酬目当てに勉強をやらせるのはマズイでしょ笑

と言ったモラル的な側面からの意見は、「学習の本質を突いていない」という意味ではもっともらしい意見です。

では、「スタンプがもらえる」場合は、果たしていいのでしょうか。

いいでしょ?だってお金のように価値のあるものじゃないんだから

しかし、これも一つの「外的な動機の誘発」なのではないでしょうか。

御朱印帳などが流行っているように、「何かを集めるために」行動している人もいます。

「スタンプ ≠ お金」と言えば話は簡単に思えますが、広く言えば、

モチベーションを誘発しているのでは?

とも言えます。

では、スタンプをもらうことは「お金による報酬否定派」の人からしたら、反対意見なのでしょうか。

これは別に、「どちらが正解かとか線をひきましょう」とかそういう話ではありませんが、僕からしたら、

スタンプはよくてお金はダメというなら、それは議論する価値がある

と思ってしまうのです。

自分なりの結論を持っていてもいいですけれど、他の案も想定しておくこと。

スタンプはお金と違って交換できるから、いいっていうこと?

とね。

教育分野においては、何よりも内部から出る「やる気」や目標が大事です。

報酬にもいろんな形があり、一概に全否定することもできません。

そうやっていろんなことを想定しておくことですね。

教育において報酬をお金で渡すことはいいかどうか。こうした議論をするだけでもとても楽しい。いろんなことを想定しておくべきだ。

少数派と多数派

昨今ですと、少数派と多数派において、少数の人が声を上げることが目立ちます。

僕は教育現場にいましたから、

  • 多様性
  • インクルーシブ(包括的)

など、変な考え方を吹き込まれたものでした笑。

なんだと?少数派を無視するのか?!

そんなこと一言も言ってません笑。

むしろ教育現場にいた僕からすれば、

だいぶ日本では少数の意見も拾ってあげているのではないか?

と思っているくらいです。

こう言いますと、

出たよ。だから多数派はその権利を使って少数派をいじめるんだ。だってそっちがイニシアティブを持っているからな!

と言ってくる人もいます。

ここで考えなければならないこととは、

なぜ多数派が存在するのか?

ということです。

多数派を “ある程度定義” しますと、

この長い歴史の中で、そう生きていくのが社会としてバランスよく成り立っているから

なのです。

別に偉いわけでもありませんが、ある程度の「正しさ/合理性」があると言っていいのではないかということ。

考えてみれば簡単なことです。

少数派と言われる例を出せばいいだけだからです。

  • 裸で歩き回りたい
  • 犯罪なんて犯していい
  • 人の邪魔をしてもいい

こうしたことが許されないのは、世の中にある一定の「常識」があるからです。(もっとライトなものであれば、女装したり奇抜な格好をしたりすることでしょうかね)

多様な考え方を受け入れることは大事なことですが、

だからなんでも受け入れてほしい

というのであれば、上記のようなことがまかり通る世界線になってしまいます。

まずは、

  1. なぜ多数と少数があるのかを考えてみること
  2. そして少数派が迫害や差別を受けているかということ

を考えることです。

権利を主張することも否定はしませんが、かと言って、

僕/私は少数派で生きにくいんだからヒドい世界だ!

と言うのであれば、僕だって「少数派としての意見」をいくつか持っています。

もっとこういう世界であればいいのに!

と思っていることなんて、誰だって一つや二つ持っているものです。

それを主張したければ、なぜ多数派には受け入れられづらいのかを考えるべきです。

  • 法的な問題なのか
  • モラルの問題なのか
  • ただの個人の主張だからなのか

そこにはそれなりの「受け入れられづらさ」があるはず。

ルールや常識がなぜ存在しているのかという論争ですかね。

こうしたところでも、社会的な構造を理解するとともに、感情論でわがままを言わないこと。

僕も「変なルール」に対しては、

なんでこのルールが必要なんですか?

と、よく噛みついていたものですしね笑。

だからそこに論理性がなければ、崩しにかかってもいいでしょう。

世の中ではいろんなルールや常識がある。しかしそれを覆そうと声を上げる前に「なぜそういう社会なのか」を考えるべきだ。

必ず他の場合を検証すること

上に書いた、

  • 教育における報酬
  • 少数派の主張は慎重に

といった議論は(他にもまだまだありますが)、

  1. 正解が一つではないにしろ
  2. 何かしらの社会的な合意形成がある

ということを考慮しなければなりません。

僕もリベラルだった時は、

なんでこんなルールがあんだよ!

と突っかかっていました笑。

とはいえ意外にも、

  1. 慣習的にただ残ってるだけ
  2. 古くて時代に合っていない
  3. 形骸化しており誰も説明できない

こういったようなルールや通念に対して、批判をしていました。

中には自己中心的に噛みついていたものもあったかもしれませんが(おい笑)、それでもほとんどのことについては、論理的に崩したかったために必ず具体例や反対の意見を先回りして、調べていました。

要は、

「ただただ自分の願望を意見として言っていたわけではない」

ということ。

こうだからこう

と説明できるからこそ、自分なりの意見として確立できるわけですからね。

感情や気持ちで動いて、

もっとこうなってほしいんだけど!
他の人の意見はどうであろうと、自分が正解だ!

と言うのは、社会を何も見ようとはしていないことと同値。

そうやって声を上げることなら、誰にでもできるのです。

そうではなくて、ちゃんと他の例や、なぜ反対されているのかということをしっかりと調べて自分の意見を築き上げてゆくことです。

もちろん、僕だって勉強が足りないことはあります。

ただ、「人の意見を聞いてもムダだ」という考え方だけはしないようにしています。

2025年7月の参院選の時に、Xでやり取りをした時も、

なぜあなたはそう思うのですか?僕はこうだからこう思うのですが…

と、相手の意見を聞く努力をしました。

そこには「聞く価値のある意見」だってありますし、僕がいつも正しいわけではありません。

  1. 柔軟性を持ちつつ
  2. いろんな意見を聞いた上で
  3. 自分なりの「こうだ」という意見を持つ

この感覚を忘れないようにしていますね。

自分の意見を練り上げるために、むしろ多くの人の意見を聞いて検証はしておくべきだ。それができなければ、ただ「こうあってほしい」という願望を言っているだけに過ぎないからだ。

おわりに

様々な意見があるからこそ、正解がないのがこの世の中です。

しかしだからと言って、

正解がないのだから、自分の意見だって通っていいはずだ!

と思うのは、ちょっとよろしくありません。

なんのために社会にルールがあるのかを考えること。

その上で、そのルールが不適切ならば訴えていけばいい。

ただただ盲目的に意見を述べることは、誰にでもできますからね。

そうならないよう、僕も日々勉強していこうと思います。

それではまた!

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