こんにちは。
長く教員生活を続けてきておりますが、ここ最近ですずきの態度が豹変したことを、自分が一番よく感じております。
以前はいかに生徒に決まり切ったレールの上を歩かせようとしていたかがわかるほど、典型的な「世間を知らない先生」でした。
ま、今でもまだ世間知らずですが。
その後たくさん本を読んでみて、教育や不登校、学校再生の本に触れてみて、考え方がガラリと変わりました。
「自分の今まで見てきた世界は、こんなにもせまかったのだな」と。
まだまだ教育とは奥が深いものですね。
最近すずきが体験した「すずきの生徒対応」の例をあげ、そこから話を深堀ってみたいと思います。
横に座って生徒と一緒に話す
中堅、あるいは少しレベルの高い学校であれば、家庭環境も整っており生徒もたくさん勉強して部活を頑張ってきた経験もあるため、精神的に成熟していることがほとんどです。
一方で家庭環境が大変な状況であったり、ろくにメシも食えていない生徒や中学校時代をほとんどスキップしてしまったがために精神的に未熟であり、すぐに癇癪(かんしゃく)を起こしてしまう生徒もいます。
この間は昇降口で生徒指導の先生が、髪を茶髪にしてきた生徒を怒鳴りつけていたことがありました。
制服に合わせてさらに私服も中に着ていたので、その先生はかなり頭にきたのでしょう。
言い合いの末、生徒をパワーで押さえ込むという行動で幕を閉じたようでした。
その後、授業中だったのですがその生徒は「帰りたい」と言って職員室に来ました。
たまたま僕が教えていたクラスの子だったので「どうした?」と言って事の顛末(てんまつ)を聞くに至ったわけです。
「そうかそうか。それでイラついていたんだな」と話を始めると、近くの階段に座り込んでしまったので、隣に僕もちょこんと座って話をしました。
そうした生徒は先生と言い合いになった後、たいていの場合イライラしています。
足をゆすっては「あいつなんなんだよ!まじでウザい!」と言っていたので、僕は「まぁまぁ」となだめてあげました。
同じ先生という立場からするとこの手の対応はとても難しく、生徒の前でその先生を否定したり、それは良くないなとはっきりと言ってはいけないと思っています。
その先生にはその先生なりの指導方針があって、それが正解かどうかはわからないということと、自分が好かれるために生徒の味方をするのは趣旨が違ってくるということがあげられるからです。
そりゃあ生徒の味方になってしまうのが手っ取り早く落ち着かせたり、長い学校生活で味方になって愚痴を共有することはできますが、それでは学校としての一貫性が失われますし、指導そのものが意味をなさなくなってしまうこともあります。
話を聞いてあげた後は「それだったらこういう風に伝えればよかったんじゃないの?」とか「指導に従っているのにきつく言われたことで、正直イヤな思いをしましたって担任に言ってみたら?」と伝えました。
悩みに便乗して共通の敵を作るのではなく、彼がまたその問題に直面した時にどう対応することが良いのかという対策や姿勢を提示してあげることのほうが意味があるんじゃないかなって思ったんです。
力で押してくる先生に対して、生徒が勝てるわけがありません。
そこで感情的にならずに、どう立ち回ると先生たちにも誠意や想いが伝わるのかを、生徒たちも知っておくべきだと思いました。
そうしてとうとうと話していると生徒もだんだん落ち着いてきて、他の若い先生も巻き込んで数人で話していたら、笑える段階まで気持ちが戻りました。
その後生徒は帰宅してしまいましたが、実は家庭環境が大変だという情報をたまたま知っていたこともあって、少しの間だけ寄り添うことができてよかったと思っています。
理解してくれる、わかってくれる先生は実は簡単そうで難しく、すずきにはその生徒たちのような辛かった経験がないため、「わかるよ」というアクションをしようとすると「わかってあげているフリ」になってしまいます。
それよりも、事情はわかってあげられないんだけど話は聞いてくれる先生、あるいは今後生きて行く上で大人としてカッコいい生き方を提示してくれる先生を目指すこと。
僕はこれらの信条を大切にしていこうと思っています。
存在を認めてあげる
ある生徒がなかなか学校に来られなくなってしまいました。
何度も電話をしたのですが、学校に足が向かなくなっていました。
それぞれの道があるんだから、生徒が決めた道に僕は文句は言わないし、学校をやめる選択肢もあると思ってはいたのですが、やはりここ数年ではそうした生徒たちがやめていったとしても、自分という存在、命を大切にしてほしいと願うようになりました。
その生徒はなかなか自身の気持ちを言葉にすることができなかったようで、ある夜、保護者に向けて思いっきり紙に自身の想いをつづり、さらにメールでテキストを打って自分の気持ちを表現しました。
僕が知り得なかった生徒の気持ちが字に表れており、気付けなかった自分が悔しくて仕方ありませんでした。
特に文中に「ごめんなさい」という言葉があった時は、身を切られる思いに涙が出てしました。
世の中にはまだまだ自己肯定感の低い生徒がたくさんいます。
その生徒たちは往々にして家庭で十分な愛情をもらえなかったり、トラウマがあって震えながら対人関係を構築していたりと、「こんな自分でいいのかな」と自問自答しながら生きています。
少し長く偉そうに「先生」をやってきた割に、すずきはほんと何も知りませんでした。
でもここまで経験してきたことと、本を読んでいろんな世界を見たことで、すぐに行動に移すことができました。
「とにかくその生徒が自分はここにいていいんだと思える環境・空気を作ってあげてください」と保護者に伝え、管理職を通して僕自身もメールのやりとりを始めることにしました。
果たしてこれが功を奏すのかは判然としませんが、やってみるしかありません。
もはやこれは学校を続けるとかそういう目先のことじゃなくて、生徒がこれから「どう自分の人生と向き合えるか」の問題です。
「ごめんなさい」なんて言わせてしまったことが本当に辛かった。生徒は先生に迷惑をかけるのが仕事なのですから。
それをドンと受け止めて「お前の存在には、価値がある!」と認めてあげることも、僕らの仕事なのかもしれません。
生徒が自分の存在を自分自身ですら認めてあげられていないのであれば、第三者である他者が認めてあげる。
そうやって生徒たちが自己肯定感を築くきっかけづくりを、先生たちは担っていると思うのです。
まとめ
ここ最近で生徒に反射的にイラっとすることがほとんどなくなってきました。
髪を染めたり、ピアスをあけたり、バイクに乗ってみたり、タバコを吸ってみたり、酒を飲んでみたりと、要は全部かまってほしいという何かしらのサインです。
生徒側に立てば「かまってほしくて〇〇したのに、なぜか怒られた」という、もう大人からすれば極めて理不尽な感情が走っているのだと思います笑。
すずきも数回は生徒たちとドンパチとやり合いましたが、だんだんとその「サイン」を感じ取れるようになってきました。
「こちらから頭ごなしに怒らない/叱らない」というたったこれだけの入りだけで、生徒と先生の間に何重にも立ちふさがる壁の第一関門を突破することができたのです。
これは一見、甘やかしや指導不足にも思えますが、それこそそう思っていたのは「以前の僕」でした。
やってはいけないことをしたら怒鳴りつけるのが指導、理由はいいから直させるのが指導、厳しい態度こそ教員としてのあるべき姿…
散々上の先生方から見せられ、聞かされ、もう飽きましたわ笑。
それらは教育ではなく「命令」です。従わせるための「しつけ」です。
規律や規則を守らせることは後々の人生で確かに大切ですけれど、僕は信頼関係こそがまず教育の基盤にあると思っていますので、そちらのほうが最短で解決すべき課題ではないでしょうか。
そこから少しずつ、間違ったことに対してゆっくりと落ち着きながら、一つ一つ生徒に問いかけてわかってもらうことのほうが、よっぽど「教育」なんじゃないのかなと思っています。
様々なケースがありますので、素早く指導しなければならない場面も多々ありますが、まずは生徒の存在・行動を一度認めてあげることで生徒たちは生き生きと話してくれますし、その先の彼らの背後に広がる悩みや不安を知ることもできます。
僕はまだまだ感じ取る能力が弱くて鈍感なのですが、いつでも彼らの存在を認めてあげて話を聞いてやれるような先生でありたいと思っています。
まだ山の中腹ですね。先は長い。
それではまた!
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