30代が目の見えない人の美術館めぐりを読む【ありのままでいよう】

幸せ

こんにちは。

先日から川内有緒さんの目の見えない白鳥さんとアートを見にいくという本を読んでいます。

足繁く通っている図書室の先生から「すずきさんは美術館が好きだと聞いたので、ぜひ読んでみてはいかがですか」と勧められたため、読み始めました。

「全く目の見えない人が美術館に行くってどういうことだ?」と、”美術館lover”になりつつあるすずきには率直な疑問が浮かびました。

僕はいつもまじまじと作品を見てしまいますからね笑。

しかし読み進めていくと面白くて、グッとくる部分もたくさんありました。

内容も少しお伝えしながら、美術館めぐりとはなんなのかという根本的なところもお伝えしていきます。

目が見えない人と見る美術とは

人生でほぼ全く目が見えたことのない「白鳥さん」と著者の川内さんが一緒に美術館に行くという、いたってシンプルなノンフィクションです。

「え?目の見えない人が美術館なんて楽しめるの?」と思う人が大半だと思いますし、それは別に悪いことではなく単純に「どゆこと?」と思うはずです。

白鳥さんは全く美術作品が見ることができませんが、誰かにエスコートしてもらうことで何回も美術館に通っています。

著者の川内さんが初めて白鳥さんと美術館に行った際には、川内さん自身も面食らってしまい「一体どうすればいいんだ?」「うまく伝えられているのかな?」「ちゃんとエスコートできたのかな?」と不安がっていました。

しかし当の白鳥さんは「見たままのものを伝えてほしい」と、ただそれだけしか言いません。

早速美術作品の詳細を伝えようと試みるものの、「あれ?さっきはこう伝えたけど、遠くからみるとちょっと違うな…」と見る角度や距離を変えることで、結果的にいろんな見解を述べることとなってしまいます。

また複数人で白鳥さんに美術作品を伝えようものならば、「私はこう見えるけど」「え?これってそういう意味なの?」「いやいや全然違うよ」など、十人十色の意見でカオス状態になります笑。

でも実はそれを聞いているのが、白鳥さんにとっては楽しいようなのです。

白鳥さんは、逆に美術館によくある音声ガイドや説明文などは一切聞かないスタイルだそうです。

すずきは美術作品の説明文はよく読んでしまいますが、確かに音声ガイドを利用したことはありません。

白鳥さん的にはそうした情報が先入観につながってしまったり、先に答え合わせをしてしまうような感覚に陥ったりしてしまうため、できる限り避けているのだそうです。

どうやらその付き添いの人が感じるままに話してくれるのがイチバンだそうなのです。

むしろそうやってそれぞれの人が感じたままのものを聞いている時間が楽しくて、美術館に通うのだとか。

うん。この発想はありませんでした。

面白くてついつい読み進めてしまいましたね。

感じ方は人それぞれである

美術作品でも特に現代アートの抽象さと言ったら、本当にちょっと何言ってるかわかりません笑。

それでも白鳥さんは、みんなが言葉にするのに困る作品のほうが好きなようです。

僕もまだ30施設くらいしか回ったことがありませんが、「これ本当に価値のある作品なの?」と思ってしまう時もあります笑。

でもそれがまたよいのでして。

その作品と対峙することによって、勝手に自分の中で想像してみたり、圧倒されてみたり、喜んだり悲しんだり、もう自分でもわからないくらいに一気に様々なことを感じます

そんな感じたことを白鳥さんに伝えるのは「至難の業」だと思う一方で、自由に伝えるとしたら自分はどういう風に伝えるだろうかと思い、楽しいだろうなとも思います。

僕は職場の人と美術作品について話すときに、スマホを使って「これこれ!」と話し合ってしまうことがありますが、このように「言葉で伝えてみる」というのもまた面白そうですよね。

すぐに視覚情報に頼ってしまわずに自分の感じたことを伝えようとすれば、その人の感じたままを伝えられますし、作品をもっと注意深く見ようとするメリットもあります。

そういえば僕も、岡本太郎の作品に関しては画像を見せて伝えるよりも「なんかこう、こちらの魂とか命に触れてくるような、力強くて圧倒的な作品なんだよね!」と言ってしまいます。

なるほどそうした抽象的な作品のほうが、人による感じ方が様々ですし聞いているほうも「なんだそれ?ちょっと見てみたいな」と興味を持つこともできます。

本書でも複数人で白鳥さんと美術館を回るときの会話が収録されていまして、「実際に彼らの会話を通して、作品を見ないで想像してみてください」というチャレンジ企画があります。

僕もやってみましたが、なんとなく思い描いていた作品と近かったような、そうでもないような…という面白い感覚に浸ることができ、確かにこれは刺激的なアトラクションでもあるなと感じました。

作品を何倍も楽しめることができました。

美術作品に限らず、ものや言葉、風景や時間など、人それぞれにそれぞれの価値観や思想、考え方や感じ方があり、それはそれぞれ独立しながらもどこか共有できるものだと思っています。

それは至極当たり前のことであるはずなのに、僕らは何かにつけて「答え」を出したがるんですよね。

著者の川内さんも、ゴッホについて知りすぎてしまっているためゴッホに対する既成概念ができてしまっており、どうしてもバイアスが邪魔するのだと書いています。

確かにさっさと答えを見るのも、ときには効率的かもしれません。

答えを知った上で人に教えるのも、また楽しいのかもしれません。

あるいは「これはこういう意味だろう」という、専門家やお偉いさんのご意見を頂戴することで「なるほどなぁ」と思うこともあるでしょう。

それでも「自分はどう感じるか」を大切にするこは、どんどん積極的にやるべき行為だと思っています。

この世界にいる限り、それぞれの人生のバックグラウンドも違えば、見ている景色も違うのですから。

白鳥さんのように目が見えない人なりの美術の楽しみ方、”見方”もあるわけです。

そうした当たり前の偏見を取り除いてくれるような美術館巡りの仕方を読んでみて、より一層美術館を巡りたいと思うようになってしまいました笑。

優生思想を持つことは悪なのか?

本書の後半のほうで、著者の川内さんの生まれてくるお子さんが障害を持つであろうという宣告を受けたときに、川内さんが泣き崩れてしまったというエピソードがあります。

そう思ってしまった川内さんは自身に罪悪感を覚え、やはりどこかで自分は「目の見えない人はかわいそう」「人より頑張らなければいけないから大変」と思ってしまっていたのではないか、と自分を責めていました。

その答えを聞こうと白鳥さんに相談すると、「そんなものは誰しもが持っている」とあっさりと肯定してしまいます。

いわゆる「障害をもった人」たちの中でも、自ら「〇〇ができる人/〇〇ができない人」という線を引いてしまうこともあるし、「もっと健常者に近づくべきなんだ」と強い信念を持って自立しようとする人もいるそうです。

「この考え方自体も、優生思想や差別なんじゃないかな?」と白鳥さんは言い放ちます。

でもそう思うのは、人間だから仕方のないことなのだ、と。

今僕らにできることは「べき論」をやめて「できる人/できない人」がいてもいい社会を作ることなんじゃないのかなって。

グッときましたね。

人それぞれの価値観があっていいし、そしてその人は「その人のまま」でいい。

僕らはどこかで知らないうちに自分や他人をランク付けしてしまっているんです。

そんな社会、窮屈だし生きにくい。

僕も白鳥さんや川内さんのように、広く「あまねく」世界を見渡せるように、たくさん本を読んでいろんな人と出会って、感受性を高めていきたいです。

おわりに

本書では「今」や「幸せ」についても言及があり、ぜひみなさんにも(特に美術好きな人には)読んでいただきたい書籍です。

「障害を持っている」ということでマイノリティーに分類され、不幸な目で見られてしまいがちですが、白鳥さんはそういう見方もやめてほしいなぁとボヤいています笑。

僕も先生をやっていると、目が見えて耳が聞こえて手足が動かせていても、色覚障害のある生徒やLD(学習障害)、ADHDからHSP、外国籍から母子父子家庭までと、もはやボーダーなんてないくらい多種多様な生徒であふれています

それぞれの生徒を認めてあげるということは、他ならぬ僕自身を認めること。

また僕自身の存在を認めてあげることで、また周りの人たちを認めてあげることもできます。

病気や障害について名前があったりラベルがあったりするのは便宜上仕方のないことかもしれませんが、そんなことを全て無視してありのままの自分でいることが大切であり、他人をありのまま受け止めてあげる人間であることもまた大切です

僕も本書から新しい視点と考え方をいただけましたので、今後もそれらを生かして世界を見渡していきたいと思っています。

それではまた!

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