こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
先日爆買いした数冊の本の中に、仏教関連の本も混ざっていました。
南直哉さん著の「禅僧が教える 心がラクになる生き方」です。
去年(2021年)の6月頃から、マインドフルネスをほぼ毎日続けていたこともあって、
「仏教の考え方も面白そうだな?」
と思い、手にとってみました。
いろいろと行動してみて、
- 心理学
- 自己啓発
- 人生論
など、多岐にわたって思想関連の本を読んできましたが、自分の日々の生活や考え方の確認の意味も込めて、読むことにしてみました。
重なる部分や、目から鱗が落ちるようなお話もありましたので、合わせて書いていきたいと思います。
人生に意味なんてない
僕はキリスト教派に属していたことがありましたが、今はそこまで宗教には興味はないです。
ただ一方で、
- それぞれの考え方
- 人としてあり方
- 教えや教訓
は、人々を導いてきただけあって本質的なものも多く、その点においては興味があります。
そういう意味では、自分の中にはある種の宗教が内在化されていると言ってもいいのかもしれません。
早速、仏教の観念を探ってみましょう。
いくつか、人生のヒントになることがあるかもしれません。
「死」について考えることはリアルなこと
仏教の観念とは、基本的に「生きること」は「苦」という観念で成り立っています。
それを「一切皆苦」といい、文字どおり「全て苦しいもの」という意味です。
非常にネガティブな思想かもしれませんが(著者は「ヤバい宗教」と言っています笑)、まずは「人生にそうした前提がある」と認識することが、仏教のスタートでもあり、本質でもあります。
僕も小学生の時に、
「死」=「自分の意識がなくなること」
という恐怖から、トイレで泣き出したことがありました。
「宗教観」というとスピリチュアルに聞こえますが、「生」(つまりは人生)について考えるということは、すなわち「死」について考えることであり、これほどリアルで生々しいことはありません。
誰もが避けられないもの。それが「死」だからです。
どんな人も、自分が生を受けてこの地に降り立った意味を考えたことがあるでしょう。
もちろん僕も、思春期の時は「なんで僕は生まれてきたのだろうか?」という疑問が頭の中をグルグルと回りました。
- 「何か意味があるのではないだろうか?」
- 「なんでこんなに辛いことばかりなのだろうか?」
と考えるも、納得のいく答えは出ませんでした。
仏教の答えはシンプルです。
なんと「人生に意味などない」と、バッサリと切り捨てます笑。
- 自分の意志で
- 生まれたくて
この世に誕生したのならば、何か意味があってもいいでしょう。
しかし人間は基本的に「受け身」の存在であり、たまたま「生まれさせられた」と思っておくべきだというものです。(だから”I was born.”で受け身なのでしょうか?)
すると、「人生の目的はそもそもない」と言い切ることができるのです。
「自分」とは曖昧な存在
「自分」という存在も非常に曖昧なものです。
- 自分の記憶
- 他者からの認識
でしか、「自分」を定義することができません。
- そんな自分を大切にする必要はないし、
- 夢や希望を持って生きていく必要もない。
と、仏教では語っています。
「人生をなんだと思っているんだ!」と誤解してしまう人がいるかもしれませんが、実は僕もこの考え方は直感的に「合っているな」と思っています。
先日「自分を大切にする勇気」を語ったばかりだったのですが笑、仏教でも、
「自分を大切にする必要はない」=「自暴自棄になれ」
と言っているわけではありません。
まずは「人生ってそんな大層なものじゃないよ」という前提に立つことが、救いになる/力を抜く助けになるというものなのです。
- 「人生ってそもそも急に、たまたま、勝手に始まったもの」
- 「苦しいことばかりに決まってるじゃない」
- 「人生そんなに大したことでもないから、力を抜いていこうよ」
と、僕はとらえました笑。
意味がないものに対して、意味を付与しようとするのは、人間がどこかで納得したいからだと思っています。
「意味なんてない」という前提に立てば、
- 無理して自分を大切にする必要もなくなりますし、
- 無理して夢や希望を叶えたいとも思わなくなります。
この「人生に意味があるかどうか」という問答は、仏教的にはするだけ無駄なのです。
もうすでに、「意味はない」という答えが出ているのですから。
人生、棒に振るくらいでいい。
そんな意味のない人生を、では一体どう生きればいいのか。
以前僕は、自分の「使命」(ミッション)について記事を書いたことがありました。
「何かを成し遂げたい」と思うのは結構ですし、それが実現することは素晴らしいことです。
ただ、世の中は自分の思うようにいかないことばかりですよね。
だから、「したい」よりも「すべき」という視点に立つことで、人生で集中できる部分が一気に狭まります。
「僕にはこれしかない」
こう思うことは、人生の理由づくりをしているのではなくて、人生を生きやすくするための指針を決めることとなるのです。
一人一人がテーマを持って生き始めると、ものごとがシンプルになり、雑音がなくなります。
あとはそれに向かって、進んでいけばいい。
仏教では、人の生死以外は些細なこと(些事)としてとらえられています。
だからそんな「些細なことだらけの人生」に、いちいち悩む必要はないというものです。
人は勝手に生まれ落ち、必ず死んでゆく。
この事実を受け止めれば、
- 自分の使命を感じて(考えて)、
- それを自分で勝手に決めてしまい、
- あとは全力で生きていく。
こう決めてしまうことで、ほとんどの悩みが解決されるのです。
だから死に向かって生きていくということは、全て「大したことないものなのだ」と思って生きていくことなのです。
さらに本書では、こんな言葉まで登場します。
「人生は、棒に振るくらいでいい」
「棒に振る」とは、
それまでの努力や苦心の結果をすっかり無にしてしまう。
無駄にする。 駄目にする。 ふいにする。
を意味しますが、「生」というプロセスの中で、
- どうでもいい
- やけくそになれ
- 無駄にしろ
と思っていていい、というわけではありません。
人間誰しも、いつかは死んで灰となる。
その終着点は変わることのない事実であり、最後は自分のやってきたことが全て「0」になるものだという見方です。
「人生そんなものだ」と認識しておくことで、「夢や希望」「過信や期待」などの無駄な苦しみから解放されるのですね。
人生の最後には「死」が待っている。
だから棒に振るくらいでいいのです。
そう思えれば、
- チャレンジしたいという気持ちも、
- 人生なんとかなるだろという気持ちも、
別に間違ってはいないのかなと思っています。
人のために何かする
僕が自分の「使命」にたどり着くまでには、様々なプロセスがありました。
- GIVE
- 利他主義
- 他人の幸せ
- 役に立つ
など、多くのことを学びました。
この1年ちょっとでガラリと思考が変わったのは、
「誰かのために、何かをする人生にしたい」
という気持ちが、僕の中に芽生えたことによるものでした。
キリスト教でも仏教でも、
- 「誰かの為に生きる」
- 「他人の役に立ってお金をもらう」
ここらへんの思想は、共通しています。
仏教では
- 人生に意味はないと言いながらも、
- 「死」に向かっていくプロセスは些細なことだと言いながらも、
この世を幸せに生きていく方法は、
「小さなことでも、誰かのために生きていくこと」
でした。
以前にも書きましたが、やっぱり誰かのために何かしている時が、本能的に幸せや生きがいを感じます。
すると生まれるのが、「人との絆」です。
これは「人脈が広い」という、数の問題ではありません。
抽象的ですが、もっと深い繋がりを意味しています。
そうやって「死」に向かっていくことは、社会的動物である人間にとっては幸せなことであり、「豊かな人生だった」と言って終えることができるのでしょう。
この点においては、
- どの宗教であろうと、
- どの本であろうと、
必ず教えられていることであり、「自己中心的に生きろ」という文は見たことがありません笑。
仏教については初めて触れてみましたが、まさか僕が学んできた他人志向型の生き方が、ここまで共通している観念だったとは、思ってもみませんでしたね。
おわりに
どんな宗教であろうと、「必ず全ての人の救いになる」ということはありえません。
最終的には、「自分の中で腑に落ちているか」が大切だからです。
- 他者のために生きていても、搾取される時もありますし、
- 他者との繋がりが深くなっても、距離が近くなって嫌になる時もあります。
あくまで全体的な話をしているのであって、個々の事情に照らしてみれば、悩みは千差万別です。
ただ、僕はわずかながらも仏教の考え方に触れてみて、「諦めの宗教」に魅力を感じました。
「諦める」とは「断念する」という意味に捉えがちですが、仏教ですと「ものごとの道理を明らかにする」という意味があります。
人生を複雑怪奇なものにしているのは、実は他ならぬ「僕ら自身」なのです。
- 「人生に意味なんてない」
- 「力を入れすぎだよ」
と言うことができるのは、
- 人生の道理を明らかにし、
- その上で断念している
からこそです。
こうして「諦めること」は、人生の大半の悩みを取り除く、1つの手段になりうるのだなと感じました。
まだまだ面白くて、奥が深い仏教。
また学んでいきたいと思います。
それではまた!
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