僕が自分の抜けているところを愛せるようになったわけ【完璧を求めるな】

雑談

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、スイス出身のカップルのバックパッカーをおもてなしする際に、「しっかりと」集合場所を間違えるという、アホなことをしてしまいました笑。

僕は昔からどこか抜けていて、

え?〇〇だと思ってたんだけど?!

と、全然違う思い込みをしていることがよくありました。

大抵は自分の都合のいいように解釈しているだけなんですけどね笑。

昔はそんな自分が許せなかったものです。

でも今は、そんな自分の欠点(?)も愛せるようになりました。

今日は「完璧を求めない」ことについて書いていきます。

人間、完璧を求める必要なんてない。どこか抜けてるくらいがちょうどいいのだ。

求めていた完璧主義者

僕が学生時代から社会人になりたてくらいまでは、誰かに自分の失敗を指摘されることが、本当に苦手なものでした。

自分は完璧でなければならない

そんな謎の縛りに縛られては、「失敗を許さない自分」がいました。

この考え方がある限り、人は何にも挑戦できないし、いつまでもギスギスしながら生きていくことになります。

確かに「度を超えたいじり」は僕も許しませんが笑、基本的にみなさん愛を持って指摘してくれます。

せいじまたかよ〜めっちゃアホやん笑

そう言ってくれることがいかに嬉しいことなのか、当時は気づけなかったものでした。

それは何より、僕自身がとてつもない完璧主義者だったからなのだと思っています。

そういう人ほど、他人にも『完璧』を求めるようになります。

  • 自分のミスも
  • 他人のミスも

許容できなくなってしまうのです。

これは「学歴社会」の1つの弊害でもあり、それが今の日本の文化を作り上げたと言っても過言ではありません。

もちろん、そこに良い作用も働いたとは思っていますが、今こそ日本は完璧主義をやめて、もっと寛容になるべきですね。

当時の僕は、

「いじったらキレられる/すごく嫌な顔をされる」

みたいな人間であり、近寄りがたかったのかもしれません笑。

自分は尊敬されるべきだし、愛を持ったイジリなんてない

そんな風に思っては、「人のことをイジる人」を嫌っていましたね。

昔の僕は、自分の失敗が許せなかった。どじったりすることは別に悪いことではないということに、気づけていなかったのだ。

自分を愛せるようになったわけ

そんないつも気を張っていた僕が変わったのは、離婚した後でした。

それがきっかけというわけではなくて、それまでは僕自身が「結構イヤなやつ」だっただけでした。

そのあたりから、

  1. たくさん本を読み
  2. 人生について深く考えた

それだけのことでした。

持っていた完璧主義を捨て去ること。

それができない限りは、人間変わることは不可能なのです。

僕はずっとその「無意味な縛り」に縛られていました。

自分で勝手に「理想の自分」作っては、それができない自分に勝手にイライラしていたわけです。

しかし、

人生は失敗してもいい
もっと新しいことにチャレンジしていったらいい

そんな言葉を、いろんな書籍で見れば見るほど、

なるほど。僕は今までそんな考え方をしてこなかったんだ

と思わされました。

まずは自分で自分の失敗を許すこと。

それができるようになりますと、心にゆとりも生まれ、他のいろんなことも許せるようになります。

するといろんな人が寄ってくるようになりました。

それは僕が、

  1. 他人に寛容になったこと
  2. いじってもいい人だと思われるようになったこと

が大きかったのだと思います。

人当たりが柔らかい人のことを、僕はずっと羨ましがっていました。

なぜあの人は、他人との摩擦が生まれないのだろう?

当時の僕は本当に人間関係に悩んでいたものでしたが、そうやってひとたび自分を許してあげることで、心に余裕が生まれ始めたのです。

まずは己を知ること。

僕の完璧主義はみるみるうちに崩壊し、

なんだ。今まで自分に厳しかったから、他人にも優しくできなかったんだ

と気づきました。

友人たちが僕のミスをいじって笑ってくれること。

当然ですがそこに悪意なんてないのに、僕は勝手にイヤな気持ちになって、勝手に自分も相手も責めていました。

人間だから、抜けていることなんていくらでもあります。

スコーンと忘れて「何やってんだ俺!笑」と思うこともあります笑。

でもそれが人間らしいじゃないですか。

僕は少しずつですが、「人間らしく」なれたのでした。

自分のミスや失敗を愛せるようになったのは、自分が完璧主義を求めていたということに気づけたからだった。

完璧なんかじゃなくていい

僕はこの学歴社会で揉まれてきたこともあり、

完璧であることが全てであり、そうあるべきであるだ

そう思い込んで生きてきました。

日本社会のせいにするわけではありませんが、少なくとも社会規範から抜け出すことのできない、ただの力のない青年でした。

でもそれは幻想に過ぎず、

もっともっと失敗して挑戦していい

ということに気づくことができました。

自分の失敗を許せない時とは、

  • 恥ずかしい
  • 笑われたくない

と言ったように、「他人」が絡んでくることがあります。

本来は全くと言っていいほど関係のないことなのに、なぜかみんな、人の目を気にしてしまうのです。

完璧な人なんていないのは当然のことなのに、日本ではどこか「完璧であろう」とする風潮があります。

そして「自分たちは不完全だ」という事実を認められないのです。(それどころか責めてしまう)

それは矛盾していることであり、事実に対してウソをついていることになります。

以前の僕が自分にウソをついていたのと同じように、誰しもが完璧であろうと無理をして振る舞っている社会なのです。

しかしこの「当たり前で簡単なこと」が、意地を張ってしまうことでできなくなってしまいます。

そんな可愛げのある自分、ひいては社会全体を認めてあげられるようになれば、世間を生きやすくなります。

そうした「寛容さ」のある人には、多くの人が寄ってきます。

以前とは明らかに違って、僕は人にとても “優しく” なりました。

  1. 人の目を気にせず
  2. 自分の失敗も愛せるようになること

これは多くの人にとって必要なことであり、僕自身が変わることができた一因でもあります。

完璧を求めれば求めるほど、自分の欠点が汚く見えてきて、それから自分のことがどんどん嫌いになってきます。

自分が嫌いになりますと、余裕がなくなるので周りの人を嫌いになってきます。

周りの人のイヤな部分が見えてきて批判するようになりますと、もっと自分の失敗を隠そうとするようになります。

それからはもう、悪循環が続くだけですね。

根本を断たない限り、何も変わらないのです。

だから、完璧じゃない自分であることを褒めてあげて、認めてあげること。

それだけで、人生は一気にハッピーになっていきます。

不完全で、未完成であり続けましょう。

それこそが、人間としてのあなたの魅力なのですから。

完璧主義を求めるほど、人は自分にも人にも優しくなくなってしまう。不完全であることを認めて、自分を愛してあげよう。

おわりに

完璧主義を捨て去ることが、僕にとっての始まりでした。

そのおかげで、人としての優しさを取り戻し笑、そこから一気に人生が明るくなりました。

  • 自分にも
  • 他人にも

厳しかった時は、どう考えても「いけすかない野郎」でした。

自分の失敗やおっちょこちょいで、抜けている部分を愛せるようになってからは、他人からもその部分を愛してもらえるようになりました。

人間、完璧なんかじゃなくていいんです。

それを認めて、もっとオープンでいましょう。

それではまた!

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