英語を話すことと英語を教えることは別物【僕の英語教育論】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

英語を教えていますと、英語講師として、

こんな自分で大丈夫だろうか?

と思うことがありました。

今となってはそこまでではありませんが、事業を始めた当時はなかなか自信が持てませんでした。(とはいえ5ヶ月が経ちましたが笑)

ただ、やはりネイティブスピーカーやバイリンガルと圧倒的に違う利点が、僕ら英語教師にはあることがわかります。

それは「純ジャパ」というアドバンテージです笑。

今日はネイティブスピーカーにも焦点を当てながら、「英語を話せることと教えることの違い」について書いていきます。

英語を話せることと教えることは全くの別物だ。だから純ジャパで教育分野にいる僕らは、プロフェッショナルなのだ。

ネイティブスピーカーの落とし穴

僕はよく、日本語話者である僕ら「日本語ネイティブスピーカー」を例に出します。

日本人でも作文が苦手な人がいたり、日本語に対する質問をされても、

まぁ、なんとなく適当かな…

と言ってしまう人がいます。(当然のことです)

僕のように1,200記事以上、

  1. 下書き
  2. 推敲・手直し

をして、毎日2時間かけて何かを書いている人間からすれば、

たいていの日本人の書いている日本語はヘン笑

と思ってしまいます笑。

別にディスっているわけではなくて、みなさん普段書くことがありませんから、間違いだらけなので純粋にそう感じてしまうのです。(僕も気をつけます汗)

話し言葉においては、違和感のある「日本語ネイティブ」はほぼいませんが、

  • 使い方を間違えていたり
  • 流れを大事にして「てにをは」を適当に繋げたり

することも往々にしてありますよね。(僕もそう)

もちろん、英語においても一緒です。

普段から「使っている英語」に気を使っていないネイティブに話を聞いてみますと、

それはわからない。単純に気持ちが悪いから使わない

などと、感覚で答えてしまいます。

でもそれは当然のことです。

一方で、外国の方々に英語を教えている「先生」は、ある程度理屈を持って教えてくれます。

この地方ではこう言うこともあるし…うーんこの言い方は違和感があるなぁ

などなど。

日本語においても、「説明できること」と「説明できないこと」は確かにありますが、同時に、

  • 説明してくれる先生
  • 説明できないネイティブ

がいることもまた事実です。

ゆえに、「先生」とは “教えること” のプロであり、単純なネイティブとは違います。

僕もネイティブの意見を基本的には参考にしますが、日本人に日本語を聞いても怪しいことがありますから笑、ちゃんと自分で調べたり、多くの人の意見を聞いたりしますね。

ネイティブスピーカーに実践的な英語を聞くことはいいが、レベルや育ちもそれぞれ。鵜呑みにするのではなく、『参考』にしよう。

話すことと教えること

僕は純ジャパですので、スピーキングレベルは1級に受かる程度であり、ネイティブのような感じでベラベラとしゃべれるわけではありません。

ただ一方で、「教えること」には長けています。

というより、そもそも好きで始めた教育分野ですし、

いかにわかりやすく教えることができるか

を意識して教えてきましたので、そのキャリアには自信を持っていいと思っています。

僕の周りには、死ぬほどスピーキングが上手い人(というよりネイティブや帰国子女)がたくさんいますので、

その人に教わりたい!

という生徒さんは、僕には合っていません。

一方で、

日本語でわかりやすく、丁寧に教えて欲しい

と言われましたら、僕ら「英語教師」の出番です笑。

また「ただのネイティブ」(失礼笑)と違い、ちゃんと教育の研究をしてきた人間ですので、

  • 単語の覚え方
  • 勉強の進め方
  • どこでつまずくか

など、手に取るようにわかっています。

自分が苦しんだ経験があるからでもありますし、ネイティブやバイリンガルが経験してきていないことを持っているからでもあります。

ある意味、

  • 純ジャパには純ジャパの
  • ネイティブにはネイティブの

特権』があるんですよね。

だから、話すこと(バチっとしたネイティブ表現)においては、なかなか敵わないことがあっても、

  • 文法
  • 解説
  • 勉強の取り組み方

などでは、少なからずアドバンテージがあるわけですね。

また、「教えること」は「話せること」と大きく違い、それなりの経験や「教え方」があります。

もちろん、

だから僕は英語を話せなくていい

とはなりませんから、

  1. 話せた上で
  2. ちゃんと教えられる

ということが大切ですね。

いずれにせよ、「教えること」は全く持って「ただ話せることとは違うこと」であることは、間違いありません。

僕らが日本語を教えるとなった時に、簡単に教えることができないことと一緒ですね。

「教えること」は、全く別のことなのです。

英語を話せるだけでは教えることはできない。教えることは全く別のことなのだ。

だから僕らは学ぶのだ

最近、本当にいろんな人からいろんな質問を受けるのですが、僕が伝えていることは一貫して変わりません。

なんでもいいから勉強しろ

です笑。

文法は要らないんじゃないか?
発音は適当でもいいんじゃないか?

なんて質問が寄せられますが、どれも「必要」なのです笑。

もちろん、「どのレベルを目指すか」によるのですが、たいていの人は、

話せるようになりたい

と、“ある程度のレベル” を目指しているはずです。

それなら、

  • 文法を学ばない理由はないし
  • 発音を適当にやってたら伝わらないし

「やらない理由」は、どこにも見当たらないのです。

僕らが第二、第三言語を学ぶなら、「勉強」は必ず必要になってきます。

そしてそこには、「学び」の伴走者が必要です。

僕は長年(というか人生の大半を)教育に充てていますが、やはり「先生」とはどこの分野でも必要。

それは僕が教育事業をやっているから、

ぼ、僕は必要な存在なんです!

と言っているわけではありません笑。

不要な人にとっては不要です。

例えば僕自身も、今まであまり「先生」に頼ったことはありませんでした。(ほぼ独学)

ただ、多くの人が「先生」を求めているのは、一緒に走ってくれる人が必要だからなのです。

  1. 言語においては学ぶことは必須であり
  2. 一緒に学んでくれる人、教えてくれる人は求められて

いるのですね。

だから「英語を話せること」それ自体も大切ですし、そこに僕ら英語教師は言い訳をしてはいけませんが「ただ話せるだけ」は、やはりニーズとして違う。

  • ちょっとした質問ができる存在
  • 言語交換など、ともに勉強する存在

程度なのです。(失礼ですが)

生徒は学び続けなければなりませんし、僕自身も学び続けなければなりません。

それは英語それ自体もそうですし、教授法(=教え方)もそうですね。

そこに「プロフェッショナルさ」を求めていくこと。

僕はいつまでも、

  1. 教育者であり
  2. 英語話者であり
  3. 言語学習者でありたい

そう思うのです。

僕らには勉強が必要だ。だから学ぶし、その伴走者が必要。教えることはまた別の能力。僕はいつまでも教育力を磨いていく。

おわりに

英語を話せることと教えることが別なのは、それだけ、

  • 経験
  • 知識

が必要だからです。

僕らが簡単に日本語を教えられないのは、「なんとなく」でしか使っていないから。

プロフェッショナルには敵わないのですね。

僕はネイティブの人たちを超えるくらい、教育ができるようになりたい

そう思って今日もまた勉強をしていきます。

それではまた!

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