こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日も、神社や仏閣、伝統についての記事を書きました。
今まではそんなことに興味すらなかったのですが、2022年に日本の各地を回ったことで、

と再認識しました。
長く存在しているもの。
それだけで、そこにはそれだけの価値があります。
だから、年配の方々や長く存在してきたものは大切にしなければならないのです。
僕らの日本を守ってきたわけですからね。
今日は「長く存在するもの」について書いていきます。
全てが真実とは限らない
何も、

とは言っていないということを、前提として言っておかなければなりません。
いわゆる「老害」という人が、残念ながら日本にもいるように、
- ポジションだけは一丁前
- 他の利益になることはやらない
という人も、ある一定数います。
だからこそ、「すべての歴史あるものが正義」とは言えません。
前提として立たなければいけないのは、この部分ですね。
一方で、
- 長く生きてきた
- 長く存続してきた
というだけでも、

という意見もまた、僕は持っています。
まるで矛盾しているかもしれませんが、本当の価値とは、そうした多方面から見た要因を掛け合わせて初めて生まれるものだと思っています。
長く存続しているものであっても、
- 時代に合わないものもあれば
- 今の時代でも愛されているものだってある
のです。
この見極めは微妙なものではありますが、やはり前者の「時代に合わないもの」とは自然淘汰されていくものなのかなと思っています。
「それらを排斥する動き」になってはいけないので注意が必要ではありますが、その存在の意味を問うて取捨選択してゆくことは必要なことです。
そうやって僕も、ムダなものを切り捨ててきました。
- 服
- 保険
- テレビ
- 人間関係
など、勝手に自分が「正義」だと思っていたものも、ちゃんと見直したのです。
それはいつでも必要なことであり、吟味する必要があるということ。
長く存在するものは、それだけで立派な価値がありますが、その真価とはいつでも問われるべきものなのですね。
長いものはいいが巻かれるな
こんな言葉がありますよね。
先ほどから書いてきた通り、長きに渡って存在するものとは、それだけで「ある一定の価値がある」と言えますし、強大なものや年配の方々の意見など、

と思えることもあります。
ただし、疑ってかからなければならないこともまた、大事なことです。

それは僕にも跳ね返ってくる言葉であり、この緊張感を超えて長く存在するからこそ、本当の意味での「価値」を見出すことができます。
僕が高校生だった頃は、だいぶ「反骨精神」みたいなものが出来上がっていて笑、多くの大人に噛みついていました。
でもこれって、ごく自然なことだと思うんですよね。
リスペクトがあるからこそ、ちゃんと吟味をする。
ちゃんと吟味をした上で、その価値をはかってゆく。
ただただ「すごいですね」ではないのです。
間違ったまま伝わり続けていたら、それは社会的な不利益となります。
僕は日本にある建築物や有名な人、場所などから、感銘を受けてきました。
一方で、建物であれば老朽化することだってありますし、人間だっていつまでも完璧であるわけでもありません。
だから、
という言葉には、僕は根っから反対なのです笑。
というよりも、僕の反骨精神が許さないのでしょうね。
しっかりと「淘汰」されてきた上での “存在” であれば、間違いないことでしょう。
その結果が神社や仏閣、歴史上における偉人たちなのではないかなぁと思っています。
古くから存在しているものには、敬意を感じる。
長く生きていることは、それだけで、優秀だってことだ。
これは伊坂幸太郎著「マリアビートル」の一節です。
僕は概ね、同意をしています。
しかしこれが成立するのは、いくつもの経験や時代を乗り越えた時です。
長いものにただただ巻かれるのではなく、それぞれが本当の価値を見出していきましょう。
だから続けてゆく
街を歩いていても、日本には神社や仏閣が溶け込んでいるように、世の中のおじいちゃんおばあちゃんも(確かに完璧ではない人もいるとはいえ)、この日本を作ってきました。
僕もそのうちの一人であって、当然のことながら、
- 社会のいろんな波に揉まれながらも
- 価値を生み出すことができなければ
その存在価値は「希薄なもの」となってしまいます。
もちろん、僕は教員でしたので、

とは思っています。
ただ、僕自身に関して言えば、

と、自分に言い聞かせていますね笑。
あくまで僕が僕自身に対して課している「規律」ですので、みなさんはみなさんなりにやられて大丈夫です。(当然)
僕が「そういうふうに生きる」と決めただけですから、別に他の人がどういう人生を歩もうとも、それはそれでリスペクトします。
ただ、注意しておかなければいけないのは、

ということ。
要は「見放されてしまう」のです。
これが、先ほどから書いてきたことですね。
- 生きてゆくと言っても
- 続けてゆくと言っても
ただただダラダラと残り続けているだけでは、当然、周りからの評価は下がってしまいます。
ここを勘違いしてはいけないというのが、今日の記事の主旨でしたね。
尊敬されるということは、それなりの内実を伴わなければいけないということ。
僕もダラダラと、
- 朝活をしたり
- ブログを書いたり
- 言語学習をしたり
- 事業を経営したり
- インスタを載せたり
- ランニングをしたり
していてはダメだというわけです。
続けるからには、
- 高い質をキープしたり
- より社会に貢献したり
できるように、考えていかなければなりません。
僕は続けてゆく中で、どんどんと成長してきたことを実感してきました。
先生をやっていた時だって、8〜9年かけて、

と思ったくらいですからね笑。
今の生活は、(2025年時点で)始めてまだ一年しか経っていません。
これからどうしていけば、社会に貢献できるような人生を作っていけるのか。
常に考えておきたいことですね。
おわりに
長く続いているものに対しては、それなりに価値を付与してもいいと思います。
しかしその取り巻きと言いますか、その背景もしっかりと見定めることです。
- なぜ愛され続けているのか
- なぜ支持され続けているのか
ここも大事なのではないでしょうかね。
僕自身も、「ただ長いだけもの」にならないように、気をつけて毎日を過ごしていこうと思っています。
それではまた!
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