こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
今週は卒業を迎える高校3年生が多く、僕の高校でも「卒業式」が執り行われました。
自分の担当する学年でないのにも関わらず、卒業式のあの「おごそかな空気」を感じるだけで目頭が熱くなってしまいました笑。
以前、年配の先輩教員が、
卒業式があるから、先生を続けてしまうんですよね。
と言っていました。
確かにその言葉は、納得のいくものです。
「卒業式」というその1日には、本当に多くの「想い」が込められています。
- 教員である僕が、なぜここまで教師を続けてきたのか。
- 卒業式に対してどのような想いを持っているのか。
書いていきたいと思います。
育てた3年間が思い出される
高校生活中の生徒たちとの時間は、実は親よりも学校の先生たちのほうが「長い」と思っています。
特に中学校〜高校ともなりますと、自分でコンビニに行ってはご飯を買ったり、部活動で遅くまで残ってはダベって帰ったりと、少しずつ「自分のお金や時間」を自分の思うように使い始めます。
高校生になりますと授業が専門的ですので、僕も授業以外で特定の生徒とあまり会うことはありません。
ただし授業以外でも、
- ホームルーム
- 部活動(大会引率)
- 掃除
- イベントや行事
- 進路指導
などの時間を一緒に過ごします。
やはり1日中同じ校舎内にいますので、「現在の彼らの様子」に関して言えば、親よりも詳しいのかもしれません。
特に担任とは学校では「スター的存在」であり笑、かつ3年間を保護者同然で育てていく責任があります。
僕自身も卒業生を出した経験がありますので、卒業式を見ている時に、
- 自分の経験と重ね合わせたり、
- 今の生徒たちの卒業式を思い浮かべたり、
- 担任の苦労を感じたり、
- 保護者の苦労を感じたり
してしまいます。
だからどうしても感情移入してしまい、涙が出てしまうのです。
手塩にかけた生徒たちを呼名(こめい)する時に、彼らが「はい!」と大きな声で返事をしただけで、凝縮された3年間の思い出が脳内をかけめぐり、涙となって溢れ出てくるのです。
- 笑いあったり
- 叱ったり
- イライラしたり
- 熱くなったり
- 青春したり
- 悩みを聞いたり
- 相談に乗ったり
- 勉強を教えたり…
かけがえのない生徒たちとの時間は、鮮明に思い出に残っており、それを送り出す側としては「よくここまできた…」と感動も一入(ひとしお)です。
特に「卒業が危ぶまれる生徒」を担当していますと、「本当によく卒業できた!よかった!(号泣)」と、娘を嫁に出す親のような感情にすらなります笑。
教師(担任)という職業は、卒業式のために3年間身を捧げる仕事だと言っても過言ではないのです。
これをひとたび経験した先生ほど、その感動の瞬間を味わいたくて、また担任をやってしまうのですよね。
全てが清算される瞬間
僕の同僚は、卒業式を迎えるといつも同じことを言います。
卒業式においては、生徒が今までやってきた全てのことが、清算されるんだよね。
- 生徒が今まで3年間で犯してきた「過ちや失敗」
- 先生や親にかけてきた「迷惑」
が、この瞬間に全て「清算」(なかったことになる)されるという意味です。
「終わりよければ全て良し」といった感覚ですね笑。
なるほど。
確かに僕の手を離れてしまえば、生徒たちは自分の足で立っていかなければなりません。
面倒を見てあげた3年間も、この日を最後に終わってしまうのですよね。
実はこれもまた、「教師の醍醐味」でして。
卒業式を終えた瞬間から、1人の大人として接することができるということは、実はとても貴重なことなのです。
今までは先生たちに面倒を見られていた子たちが、卒業式を境に「大人」として扱われるのですから、僕ら先生たちもびっくりです笑。
今もこうして、「同じ学び舎」で3年間をともに過ごした子たちと、飲んだり話したりすることができますので、それだけで僕にとっては十分すぎる財産なのです。
卒業式にはそういった「イニシエーション」(通過儀礼)という意味合いもあるため、僕は卒業式が好きなのかもしれませんね。
ちなみにちょうど読んでいました「大富豪アニキの教え」にも、「面倒を見る」という言葉の意味が載っています。
『面倒を見る』という言葉があるやろ。
ということは、面倒だからやってあげるのであって、そんなにカンタンにすむことなら、そもそも『面倒を見る』とは言わないやろ
(中略)面倒でややこしいからこそ、楽しいんやて
「面倒」なことだけど、3年間みっちり見てあげる。
- 手のかからない生徒
- 優秀な生徒
- 自分でなんでもできてしまう生徒
は「カンタン」であって、先生の力なんてなくても自力で進んでいけます。
しかしほとんどの生徒は、愛情に飢えており、自信を持てていないのです。
たとえ仮に「なんでもできてしまう生徒」がいたとしても、僕ら教師には、3年間「面倒」を見てあげる責任があるのです。
高校生たちの生活を世話するのは、確かに「面倒」でしかありませんが、だからこそ「楽しく」てやりがいがあります。
全てが清算される卒業式があることで、今の子たちがかけてきた3年分の「面倒」が、「感謝」となって僕たちに返ってきます。
だからこそ僕は、教師という職に就いたのでしょう。
教師は「面倒を見るというGIVE」を先にできる、最高の職なのかもしれませんね。
「教育」は将来への最大の投資
卒業式を経て、改めて「やっぱり先生を続けたい!」とも思いました。(続けませんけど笑)
僕がなぜここまで教育を愛しているのかと言いますと、
- 若者たちが宝だと思っており、
- その若者たちの面倒を見て、
- いろんな道筋を示してやること
が、僕にとっての最大の投資だと思うからです。
僕の人生は「限られたもの」です。
その中で下の代の子たちのために、いかにタスキをつないであげることができるかが課題なのです。
現代では、
- 教育は家庭から学校現場へと丸投げされ、
- 先生たちは疲弊し、
- 何かあれば批判される
という悪循環ができてしまっています。
だから文句も何も言わずに、業務をやりきることが偉いこととは思っていませんし、「家庭が問題なのだ!」と事情のある家庭をやり玉にあげたいわけでもありません。
単純に今の仕事の中で、生徒たちに最高の学校生活を送ってもらいたい。
それは、
- 勉強だったり
- 仲間だったり
- 思いやりだったり
- 礼儀だったり
- 敬意だったり
- 恋愛だったり…
「学校でしか学べないこと」を学んでもらうために、先生たちが全力でサポートし、間違った道に進んでしまったら、しっかりと正してあげる。
そうして恥をかくことも、間違いをしでかすことも経験しながら、「卒業」に向かっていくのです。
ただもちろん、「卒業」させることが目的なのではありません。
限られた3年間という時間の中で、生徒たちとともに考え、悩み、学び、その日を迎えることができたのなら、それは確実に彼らの人生の次のステップ(手段)としての卒業式になることでしょう。
僕は教師をやめても、どこかで必ず「教育」に戻ってくると信じています。
今は彼らが一人前の大人へと羽ばたくための3年間を、全力で応援してあげようと思っています。
おわりに
「卒業式」は、なぜこんなにも僕の胸を熱くさせるのでしょうか。
考えてみたところ、やはり「区切り」として3月にその儀式があることに、大きな意味があるからなのだと思いました。
大人(社会人)になりますと自由度は高くなり、
- 「あと定年まで〇〇年か…」
- 「あと〇〇年で異動か…」
くらいでしか区切りがありません。
あまり明確な線引きがなく、つかみどころのない世界で戦っていかなければなりません。
「時間は有限だ」とわかってはいるはずなのに、どこかで妥協する自分がいて、
「あの時はもっと熱い心を持っていたはずなのに…」
と思ってしまうのでしょう。
だから卒業式を見ている先生たちは、自分なりの「区切り」を再確認させられ、気持ちを新たにスタートできるのかもしれませんね。
しかし、ただただ感動しているだけではダメです。
僕も前に進んでいかなければ。
1年後の僕の受け持つ生徒たちとの別れを、最高の瞬間にできるよう、また明日も面倒をみようと思います。
それではまた!
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