自分の人生に大切なものってなんだろう?【経験することで絞られる定義】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

さて、カナダで友人宅にお世話になっている僕は、旅をしていることをすっかり忘れては、ゆったりとした時間を過ごさせてもらっています。

友人と朝、公園を散歩していますと、

僕らは歳をとったから、幸せの定義が変わってきたんじゃないかな?

という話になりました。

確かに歳をとるにつれて、

バカ騒ぎする楽しさ

から、

落ち着いてゆったりと話す楽しさ

みたいなほうに、方向転換してきたことは事実でした。

何度も書いてきた「幸せ」の定義。

今日もまた、ふと思ったことを徒然と書いていきます。

幸せは身近で小さなところにある。その幸せにだんだんと気づいていこう。

求めすぎていた若い頃

人には必ず「若い時」があります。

人間ですから、当然ですよね笑。

僕も大学生の時は、高校時代までの鬱憤を晴らすかのように笑、

  • 飲んで
  • 騒いで

いたものでした。

程度は人によるかと思いますが、僕なりにはかなり「ハメを外したほう」だと思っています笑。

当時はそうした「ワイワイすること」がとても楽しくて、大人数での飲み会でみんなが入り乱れながら騒ぎまくるのが好きでした。

それはいつも、「自分」を中心に考えていたからだと思います。

決して悪い意味で言っているのではなくて、ただ今よりもずっと視野が狭かったということです。

「自分が楽しいこと」が一番でしたし、その雰囲気の中にいる自分もまた好きでした。

つまり、

そのような機会があるのならば、そこにいたい

という欲望もあったということです。

省かれるのが怖かったわけでもありませんが、今とは圧倒的に楽しい』の定義が違ったと思っています。

  1. 常に楽しい「何か」を探し
  2. 常に「ワイワイできる場所」を探していた

ようでした。

今の若い子たち(日本でも海外でも)を見ていても、全員が全員ではありませんが、そういう類のものが好きなような、「そんな傾向はある」とは感じています。

もう僕にはちょっと無理ですけどね笑。

いや〜、僕も歳をとったなぁ

そう感じるのは仕方のないことですね。

でも考え方が変わっていくことは普通のことですから。

今振り返ってみても当時は、

  • 何かを求めていた
  • 何かを欲していた

そんな気がしますね。

若い頃は何かを積極的に求めていた。歳をとるにつれ、徐々にそうした空気感に違和感を覚えるようになったのだ。

いろいろと経験をしておくこと

よく言われることは、

若いうちにいろんなことを体験しておくこと

といったアドバイスではないでしょうか。

僕も真面目中の「ど真面目人間」でしたから、「多くのことを体験しないまま」大人になっていったほうです笑。

若い頃にサークルで「そうした経験」ができたことは、今にも繋がっていると思っています。

この旅もそうですが、いろんなことを経験することで選択肢に幅ができるからです。

以前の僕は、

絶対にそんなことしちゃいけないんだ!

というマインドがとても強くて、二十歳になるまでお酒を一滴たりとも飲んでいませんでした。(法的には当然のこと笑)

もちろん、今でもまだまだ体験していないことはたくさんあります。

ただ以前の考え方と違って、

いや、それは無理にやらなくてもいいかな

と思っているだけなのです。

  • タバコ
  • 女性遊び
  • ギャンブル
  • マリファナ

など、聞こえが悪いものを取り揃えて申し訳ありませんが笑、これらに対して決してネガティブなイメージを持っているわけではないものの、自分で考えた上で、

別にいらないかなぁ

と選択しています。

中には体験していないものも含まれていますが、興味がなければ「そもそもやらなくてもいい」わけです。

勧められた時やタイミングが重なった時に、

あ、ちょっと試してみたいな!

と思うのならば、やればいいだけのことなのかなと。(サウナは良い一例かと)

  • 経験が少ないこと
  • 無理に選択をしないこと

これら2つは全く異なります。

どこで僕が「ギャンブラー」になるかわかりませんし、気がついたらクスリをやっているかもしれません笑。

それらを忌み嫌っているのではなくて、許容はしていても、

自分の幸せには繋がらない

と思っているだけなのです。(少なくとも今のところは)

歳をとってきますと、そんな「経験」が飽和状態になってゆくのだと思います。

新鮮な体験」はどんどん減っていきますからね。

僕はこの「世界の旅」で視野が広がると同時に、「数年分の体験」をすることができました笑。

すると、

何が自分にとっての幸せだろう?

と、また改めて思うようになるわけです。

ただ、経験を「した/していない」に優劣はありません。

自分がときめくものや好きなことをしていく中で、取捨選択していくこと。

歳をとって落ち着くということは、良くも悪くも「経験をしてきた」からなのですね。

いろんな経験を済ませておくと、何が幸せなのかがだんだん絞られてくる。全てを経験することはできないが、いろんなものを見ておくことで選択肢は広がってゆくのだ。

変わらない「幸せ」を定義すること

いろんな人に会えば、いろんな人の価値観や幸せの定義に触れることができます。

僕は以前からお伝えしている通り、もう何か「激しい経験や体験」みたいなものは求めていません笑。

もちろん、

  • 激しい運動
  • 燃えられるもの
  • 自分を成長させてくれる体験

は求めていますが、「みんなでバカ騒ぎするパーティー」みたいなものは、

いや、もういいよ笑

と思っています。

だからこそ「修行僧(=monk)」と言われてしまうのですが笑、

幸せとはそんなに大それたものではない

というのが僕の持論だからです。

カナダの友人宅に滞在していますと、

あれ?こんなにゆったりとしていていいんだっけ?

と思ってしまいました笑。

一方で、

そうそう。旅だからと言って「エキサイティングなもの」を求め過ぎてても、あまり意味がないんだよなぁ

とも思いました。

今までの旅の中では、メルボルンにいた時と同じくらい、一番まったりできています笑。

動画を撮っていますと、どうしても「何か特別なこと」を求めてしまいがちですからね。

ゆったりとした時間を過ごしていますと、

あぁ、日本に帰っても同じように過ごそう

と改めて感じました。(帰ったら仕事を始めなきゃですが笑)

「歳をとったから」ではなく「いろいろ通ってきたから」。

そして幸せの感じ方は、それぞれが定義していい。

そこに正解はありませんからね。

今の僕にとっては、

  1. ゆったりまったりと
  2. いろんな人と会って話すこと

が「幸せ」なのです。

そして、定期的に運動して自分を追い込んで。

「足る」を知って必要最低限の生活をしていくことが、僕には合っているのです。

改めて感じる「日常」の大切さ。

もはや今は「海外にいる気がしない」状態ですが笑、やはり僕は「ゆったりとしている時間」を求めていたことがわかったのです。

自分にとっての幸せを定義できれば、場所を変えても定義は変わらない。僕は改めて、ゆったりとした時間に幸福を感じたのだ。

おわりに

幸せって、やはりシンプルなものなのだと思っています。

若い頃に比べてざっくりとですが、「落ち着いている時間」に幸せを感じるようになりました。

旅を始めた当初は、もっと「ワクワクしたもの」を求めていましたが、海外で「気持ちのいい朝」を迎えれば、それだけで涙が出そうになったものです。

結局僕にとって幸せとは、いい意味で「そんなもの」なのです。

モントリオールで感じている幸福感。

ここ数年でもそうでしたが、これからもそれは変わらないのだと思っています。

もちろん、求めるものはそれぞれでいいのです。

「幸せ」にも多様性はありますからね。

みなさんにとっての「幸せ」はなんでしょうか。

考えてみてくださいね。

それではまた!

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