こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、和歌山県の新宮駅付近を歩いていた時に、お寺の掲示板に、
「親切はさせていただくもの」
という文言がありました。
ふむふむと思いながら神奈川に帰った後、もうすぐ読み終わります「開き直る禅思考」に、同じことが書いてあったので驚きました。
僕は「GIVEすること」については何度か書いてきましたが、親切についてはあまり書いてきたことがありませんでした。
今日は「親切心」について書いていきます。
受けた恩を忘れないこと
本書には、
受けた恩は石に刻み、与えた情は水に流せ。
という言葉が書いてありました。
捉え方によってはそうなのかもしれません。
ただここ最近で僕は、「見返りを求めること」をバカバカしく思うようになってきました。
もちろん、適切なバックは必要です。
そうしないと、持続可能な関係は続かないからです。
それでも、多くの人が上のようなスタンスを持っておくことは、とても大切なことだと思っています。
それは、自分がずっと見返りを求めていたTAKER側の人間だったからわかるのです。
当時ほど心が貧しく、トゲトゲしていた時はありませんでした。
一方で、
と、純粋に人に与えられるようになってからは、毎日を幸せに感じるようになりました。
しかしそれは、そもそも多くの人から「GIVE」してもらったことが、心のどこかにずっと残っていたからでした。
受けた恩を忘れるような、そこまで落ちぶれた自分でなくてよかったです。
今でも多くの人からもらう「GIVE」を忘れずにいようと思うと、心からGIVEができます。
しかしだからと言って、無理やり「受けた恩」を覚えようとはしていません。
普段から、常にそう思っておくようにしたのです。
だから基本的に、与えるほうから始めてしまう。
だって、常にもらっているから。
この感覚を持つことで、「与えた情」はもはや覚えていないことのほうが多くなりました。
こんな境地までいけたら(もはやほぼその境地)、幸せだなと思っています。
親切はさせていただくもの
反射的に/本能的に「親切」をする時、多くの人々は、
と思う暇もなく、体が勝手に動いているはずです。
というように、見返りを求めて親切をする人は、「してあげている」という感覚があるのでしょう。
その気持ちは、正直なところ「いい迷惑」です。
そんな気持ちで親切にされても、受けた側は「そんなに無理して親切にしなくてもいい」と思ってしまいます。
一方で「させていただく」という言葉を見てみますと、
と思ってしまいますよね。
しかし本書には、
- させて頂けてうれしい
- 受け取ってもらって幸せだ
という気持ちを持つようにと書かれていました。
なぜなら「親切」とは、相手がいて初めてできることだからです。
相手がいることを当然のことだと思って、やってあげているんだと思ってしまいますと、感謝の気持ちは一切入る余地がないですよね。
親切は、しようと思ってすぐにできるものではないのです。
相手のことを想い、どうしたら力になれるかと考えるからこそ、「親切心」は生まれます。
それだけでも「有り難きこと」なのです。
その機会をもつことができたことに、感謝すること。
だからこそ、
「親切はさせていただくもの」
なのですね。
GIVEも一緒です。
相手がいて初めて成り立つものだからこそ、尊い。
すると、
「なぜか与え続けてしまう」
という行為にも、納得がいくのです。
ゆくゆくは、相手から「感謝されること」になりますしね。
「親切」をさせていただくことで、すでに多くのものを受け取っているのです。
「親切」は良くも悪くもない
僕は、優しい人ほど強い人であると思っています。
「優しい人」は、多くの人から「優しくされた経験」があり、その経験を必ず覚えています。
僕自身は、驚くほど「人に優しくされた経験」がありましたが、その優しさに素直になれない自分がいました。
どこか気恥かしいと言いますか、まだ「親切をしてあげている」というような解釈をしていたからだと思います。
「優しくされた経験」を、本当の意味で理解して、
と感じることができれば、「人に優しくすること」ができます。
自分の「されてきたこと」に真摯に向き合い、感謝できる人。
その感謝の気持ちから、恥ずかしげもなく人に親切にできる人。
そんな人ほど「強い人」でしょうし、もちろん「させていただいた親切」に見返りなんて求めていません。
しかし結果的には、
と思う人が寄ってくるものなのです。
一方で、
- その人のためだと思って親切に対応してあげる。
- 他人を変えようと思ってアドバイスをしてあげる。
実はこれらは、「見返り」を求めている例です。
もっともっと純粋に「水に流す」こと。
「させていただいている」という感覚と「水に流すこと」は、直感的にも一致しますよね。
「してあげている」という感覚は、言葉自体を見てみても「しこり」のあるような感覚に見えはしないでしょうか。
という状況が想像できてしまいます笑。
「親切」という言葉自体には、良いも悪いもありません。
その「態度」が変わってしまうだけで、「親切」も悪いものとして捉えられてしまいます。
- してやっていると思いながらする親切なのか。
- させていただいていると思ってする親切なのか。
今一度、考えながら与えていきたいですよね。
おわりに
親切はさせていただくもの。
この言葉を聞きますと、
と思うのが普通だと思います。
ただその背景にある、
- 人の存在
- 人の優しさ
これらをちゃんと意識するだけで、「有り難いことなんだ」という理解にたどりつくことができます。
それが理解できれば、与えた情を水に流すことも難なくできます。
意図的に「親切」を行なっていくのでなく、自然と体が動くような、そんな態度を持っていたいですね。
それではまた!
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