こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、ダンスの練習をして遅くに帰ることがありました。
華の金曜日ということもあってか、埼玉の電車には酔っ払いも少しいました。
終電だったため、ちょっと混んでいたのですが、おっちゃんが隣の狭いところにドデンと入ってきましたので、僕の足を邪魔に思ったのか、
みたく言っていました。
以前の僕だったら睨みつけて、ガンを飛ばしていたと思います笑。
おっちゃんと言っても「おじいさん」のレベルですので、怒る必要もありません。
今日は「心を広く保つこと」について書いていきます。
まずは自分がイライラしないこと
そもそも論として、まず僕自身が普段からイライラを出さないことが大切です。
僕がイライラするような人間であれば、そんな人を見た時に必ず、
となってしまうからです。
もちろん、横に無理やり座られた時には「なんだなんだ?」とは思いましたが笑、少し混んでいたので別段おかしいことでもなく、気にしていませんでした。
また、少し駅に長く止まっていた時、寒い風が入ってきました。
今度は隣に座っていたサラリーマンのお兄さんが、イライラしていました。
ドアがボタンで開閉できる電車でしたので、閉めることができたのに、開いていたからです。
みたいな感じで、ドカドカとドアのほうに歩いて行って、乱暴にドアの「閉まるボタン」を押していました。
もし僕が余裕のない人間だったら、この二人を睨みつけて、
という感じを出してしまっていたことでしょう。
それでも僕は平静を保ち、読書に集中していました。
それができたのは、僕は普段からほとんどイライラすることがなくなったからだと思います。
人間関係や、仕事の「できる/できない」などでイライラしていた教員時代は、何かと人にケンカを売っていたものでした。
「好戦的」だったのは、自分もイライラをぶつけたかったからに他なりません。
その事実がわかってからは、人のイライラに対してまず反応が遅れるようになり笑、
と思うようになりました笑。
普段から自分が平和に過ごしていれば、人に怒ることはなくなるのです。
そんな人の挑発に乗らないこと
決して「世界の人々のほうが優しかった」とは言いませんが、やはりガックシ来てしまいます。
みんな酔っ払っていたのでしょうし、仕事で疲れているのもわかりますが、なんだか残念な気持ちにはなりましたね。
しかし、僕自身も昔はそうでしたから、
と思うようにもなりました。
大切なことは、そうした「イライラの灯火」みたいなところに反応しないことです。
そもそも女性のみなさんは、
と、危険を察知していらっしゃるとは思いますが、時に危ない「流れ弾」が飛んで来ますので注意は必要です。
特にそこに関わってしまいそうなのは、血の気の多いオス諸君ですけどね笑。
ただ、そうした「イライラ」を受け取ってしまうという意味では、男女関係なく精神的に影響を受けることは間違いありません。
まず「自分が安定した精神を保つこと」は、先述した通りです。
そしてそのような「イライラの波」が来ても、それに乗らないことです。
僕はそもそも、そんな「イライラした人たち」に対する反応が遅れてしまうようになったのですが笑、仮にその「イヤな波」に気づいたとしても、
- 無視するか
- 笑ってあげるか
を決め込むようにしています。
ケンカになってしまう場面もたまに見かけますが、あれは最悪のケースです。
得られるものは何もなく、見ている周りの人たちはさらに不快になります。
もし、「人に迷惑をかけている」レベルで怒っている人がいたら、
と、なだめるくらいはするかもしれませんが。
いずれにせよ、そういう人たちというのは、「何かを表現したい」だけなのです。
「かまってほしいこと」とは少々違いますが、何かしらの欲求を満たしたい(あるいはストレスを発散させたい)ことは間違いありません。
僕も「やり切れないこと」はたくさん経験してきましたが、怒っても仕方のないことですし、当たっている人に反応しても、それは彼らが望んでいることでもありません。
周りの感情の変化に乗ってしまうような自分であれば、その程度のコントロールしかできないということです。
相手の挑発とも言えるような、ただの「ストレス発散」に乗る必要はありません。
温かい目で見てあげましょう。
そんな人を「かわいい」と思えるか
そして僕が一番最近感じるのは、そんな「怒っている人たち」を見ても、
と思う程度になったということ。
子どもが「ワーワー」と叫んでいても、そこで感情的になる大人はほとんどいませんよね。
それと同じです。
大人に対しても、”そういう気持ち” を持っておくことはとても効果的です。
と。
これは決して、見下しているわけではありません。
と思ってあげることです。
隣に座ったおじいちゃんも、サラリーマンも、まだ至らないところがあったのか、それとも何かイヤなことがあったのでしょう。
「俯瞰するように」彼らの現状を見て、
と思えるかどうか、ですね。
僕がそう感じられるようになったのは、多感な高校生たちを見てきたからだと思います。
いい意味で、彼らは自分の感情を「素直に/感情的に」ぶつけてきます。
僕らにもそうした時代があったように、「感情をありのままに出すこと」は、彼らにとっては自己表現の一部でしかないのです。
それを受け止めてあげるのが「先生」だったため、僕は自然と「どうした?」と聞くようになりました。
これは実は、大人になっても変わらないことなのです。
年齢に比例してある程度精神も発達していくものですが、20代の僕が血の気が多かったように笑、いつまで経っても変わることのできない人もいます。
そこに「優しさ」を示すというより、自分が疲弊しない(攻撃されない)程度に、そっと見守ってあげること。
僕は海外を周遊してから、より年齢差を気にしなくなりました。
年上にタメ語も使うようになりました笑。(信じられない変化)
疲れているサラリーマンを「よしよし」と言えれば、それは僕が成熟したということ。
余裕のある僕が、何かあれば止めに入れるような姿勢でいて、かつ「まぁまぁ落ち着け」と思えていればそれでいいのです。
八つ当たりしたり怒ったりすることは基本的によろしくありませんが、感情を制御できないのであれば、それは仕方のないことですからね。
そんな時に、
と思えているということは、それだけ余裕を持って温かく見守り、支えることができているということなのです。
おわりに
夜の電車に乗りますと、
と思うこともありますが、それだけ「みんな頑張っているんだろうな」とも感じます。
気にしないに限りますが、怒っている人を下に見たり、戦ったりしないことです。
温かく包むことができれば、それが一番ですね。
それではまた!
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