こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
人と関わっていますと、いろんな人と出会い、別れることがあります。
どれが正解だということではなく、
とは、先日の記事で書いた通りです。
僕は以前、
と、自分の性格を恨んだことがありました。
発信していると批判されたり、指を差されたりするものであり、
と、悩んだ時期もありましたね。
今日は、そんな「自分の性格」について書いていこうと思います。
基本的には優しく穏やかに
僕は以前、「結構イヤなやつ」でした笑。
それに比べれば、今はほとんどイライラすることもなくなりましたし、毎日穏やかに生きています。
- 他人を認めること
- 誰かのために尽くすこと
ができるようになったこともありますし、ゆったりとした時間を取るようにしたおかげで、余裕が出るようにもなったからでしょうかね。
以前の僕の「悪かったポイント」は、
- 批判的
- ネガティブ
- イライラしてる
- 人の目を気にしすぎ
- できない人を見下す
というような、「人間の風上」にも置けないような点でしたね笑。
そうした “明らかな” 悪い点は是正すべきであり、基本的には「優しく」ある必要があります。
とはいえ、
では当然、全く意味がありません笑。
人の心とはどこまで行っても本人にしかわかりませんが、やはり根本の部分が腐っている場合、どれだけ人と関わる時に摩擦を起こしていなくても、結果的に人は寄ってきません。
だから僕は、
と、
「摩擦を起こさない人なのに、なぜか誰からも関心を寄せられていない人」
を見て、深く考えたのでした。
大切なことは、
- 表面的な優しさや親切心ではなく
- 心の底から愛を持って接すること
です。
僕はそれからというもの、基本的に「優しくいること」ができるようになりました。
それと同時に、「人への厳しさ」にも磨きをかけられてきたのかなと思っています。
厳しいことはいいこと?
個人的には、“厳しい” にもいろいろあると思っています。
特に僕は先生をやっていたこともあり、生徒に「はっきりと」言わなければならないこともありました。
以前の僕は、
という「謎理論」を展開していました笑。
今思えば、「言い方」や先述したような「心からの気持ち」次第で、相手にはちゃんと伝わると思っています。(もちろん、全然受け止めてくれない人もいますが笑)
僕が全部正しいと言うわけではありませんが、
ということが、今ではほとんどとなりました。
以前は、
- 相手を変えよう
- 気に食わないから批判しよう
ということが多かったです。
現在では、
と、はっきりと言ってあげるか、「この人はもうダメだ」と思ってスッと離れるようにしています笑。
要は「厳しいかどうか」が大事なのではなくて、そこに嫌悪感や相手を傷つけ(批判し)ようと思っている気持ちがあるかどうかということ。
だから僕は、
と、平気で言うようにしています。
「厳しく」聞こえるのかもしれませんが、以前の僕だったら、
と考えていましたが、今では別に厳しいとは思っていません。
もうこればかりは、「相手の受け止め方」に委ねるしかないからです。
どんなに優しく言っても傷ついてしまうことだってありますし、その人の言い方そのものよりも、そもそも性格が気に食わない(合わない)人だっています。
つまり、自分の発言の根本に相手を貶(おとし)めるような意図さえなければ、それでいいのです。
だから僕はいつでも言葉を選ぶようにしていますし、感情的に意見をぶつけることはほとんどありません。
「こうしたらいいと思う」という自分の意見を、できる限り100%「純粋に」伝えるようにしています。
その上で嫌われたからと言って、
と思うこともありません笑。
それぞれの受け止め方に任せればいいだけですからね。
- 言い方
- 根本にある気持ち
ここさえブレていなければ、厳しかろうが優しかろうが、
と思うようにしていますね。
それぞれのありのままで
僕が思うに、
- 優しい人
- 人当たりのいい人
とは、人と関わる頻度を減らしたり、意見(発信)をしなかったりすることで、自然と獲得できる「表面上の性格」なだけです。
だからそこに価値があるとは思っていませんし、これから本当の意味でお互いにぶつかっていくのであれば、「自分はどう思うのか」を真正面から言ってくれる人のほうが好きです。
と思っていた「若きせいじ青年」は、言い換えればただ「八方美人になりたい」と言っているようなものでした。
人との関係は流転(るてん)するものであるとは、先日も書いた通りですが、「自分の性格」についても、
とも思っているのです。
- 無理して他人に合わせる
- なんとなく摩擦を起こさないようにする
とは「ハッタリ」であって、本来の自分ではありません。
もちろん、最低限の言葉遣いや、先述したような「言い方/根底にある気持ち」は、前提としてある程度は正しくありたいものです。
しかし、その前提条件が揃っていたとしても、人との交流とはどこかで摩擦が生まれてしまうものなのですよね。
これが僕なりの答えであり、
と思って、毎日を生きています。
ありのままに生きるとは、いつも書いている通り、
- 傍若無人でわがまま
- 倫理観に欠けていてもいい
ということを意味しているわけではありませんからね。
- 自分のことを見つめ直して
- ちゃんと多角的に考えた上で
“今の性格” になっているのであれば、それでいいじゃないですか。
それでも「自分のあり方」を信じていられていないのであれば、それは逆にどこか自分の落ち度があるはず。
僕もそうでしたし、これからもそんなことは起こり得るでしょう。
でも基本は、ありのままでいい。
その “ありのまま” を好いてくれる人たちと一緒にいればそれでいいですし、相手を傷つけたり批判し続けたりするような人にならないように気をつければいいのです。
自分の性格やあり方を、認めていきましょう。
おわりに
人の性格に正解も不正解もありません。
こうして僕が書いている性格についても、
と言う人がいてもいいです。
大切なのは、自分らしくあること。
いつでも自分を信じて、時に傷つきながら修正して、また生きていきましょう。
それではまた!
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