こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、学生さんと話していますと、
という質問が来ました。
元教師の立場として言わせてもらいますと、

だと思っています。
敬語に関しては、当然「礼節」という意味でちょっと例外的な部分もありますが、お互いの了解があれば使わなくても全然問題ないと思っています。
目上の人を敬う文化は素晴らしく、それが「言葉」に表れることもまた、僕は大事なことだと思っています。
一方で、 “年齢差別” でもあるのかなと。
こうした日本の既存のルールにメスを入れていくことが、今後僕らに必要なことなのかもしれませんね。
今日は改めて「ルール」について書いていきます。
ルールはあって然るべき
さて、結論から言いますと、

でもあると思っています。
何もルールのない社会、それは社会通念という意味も含めてですが、それらがなければ「無法地帯」となってしまうからです。
みんな好き勝手生きられないのは苦しく見えるかもしれませんが、「ルール」という共通の概念のもとで生活をするからこそ、ある意味でストレスなく生きられるのもまた事実です。
道路なんか見ればわかる通り、標識などのルールが全くなければ、事故だらけとなってしまうことでしょう。
ルールを守らないものは罰せられ、それが牽制となりますから、
ルールは必要なのです。
僕の友人も、
と言っていて、とても印象的でした。
一方で、「元あるルールそれ自体」を疑うこともまた大事なことです。
学校においては、
- 生徒も
- 先生も
- 保護者も
既存のルールにとらわれないことです。
理由が説明できないようなルールなら、それは形骸化しているだけのルールであり、中身なんてありませんからさっさと廃止したほうがいいです。
ただ、そこに意味があって「大多数が納得できるもの」であれば良いでしょう。
できないようなら見直すこと。
そんなこと、誰にだってわかりますからね。
まずは簡易的なルールを作成し、それに則って行動することです。
不都合ができたら修正して、また変になったら変えればいいだけのこと。
そうです。
“ある程度は” それでいいのです。
時代の進むスピードが速いのですから、それに合わせて変化することは大事なことなのです。
柔軟性を欠くようならやめろ
さて、柔軟になることができないようであれば、先述した通りそのルールは意味を成しません。
- 学校
- 政府
- 会社
など、あらゆる機関で、
という声が上がり始めてきました。
日本では、昔から「声を上げること」がいなされてきました。
こんな風に、レッテルを貼っている人はいませんか?
本来はそうではありません。
間違っているものに対してきちんと、
と言えることが、「本物の人」なんですよね。
他の国にいけば「当たり前」であることなんてザラにあります。
世界を回ってみた僕は、

ということでした。
全部が全部、「ルールをなくせ」と言いたいわけではありません。
一つ一つ吟味して、変えてゆくことに意味があります。
先日話した学生さんも、
という、純粋な疑問が発端でした。
古い組織となりますと、こうした純粋な疑問の声が届かなくなってしまいます。
それを変えることには、確かに労力もかかるでしょうから、
- コスパ
- 総合的な見地
もまた大事な要素です。
ただし、一番ダメなのは、頑なに「変えようとしない」という姿勢を持ってしまうこと。
慣例や慣習を “悪い意味で” 続けるようであれば、それは組織として成長することはなく、時代に淘汰されるでしょうね。
漫画ワンピースでも、時代のうねりや人の意志には抗えないと言っていましたし。(盲信)
柔軟に考えられないような組織、あるいはそういう人がトップにいては、その組織は腐敗・弱体化して時代から取り残されます。
ルールがあることはとても大事なことです。
でもいつでも本質を忘れないように、ちゃんと物事を見られる「柔軟な人」になっていきましょう。
バランスを取れる人であること
先述した通り、
- ルールも必要
- 柔軟性も必要
だと思っています。
いつでも大切なのは「バランス感覚」ですよね。
例えば「敬語」に関して言えば、僕もある一種の「差別」だとすら思っています。
個人事業主として働き始め、オンラインコミュニティに属してからは、年齢が上の人にも平気でタメ口を使うようになりました笑。
そもそも年齢も聞いていませんし、年齢を聞く理由もありませんからね。
昔の僕では考えられない行動ですが笑、やたらテレビで年齢を表示する謎の日本の文化とは、いい意味で逆を行っていて、いいなぁと感じています。
もちろん、初対面の人には「丁寧に」という意味で、敬語や丁寧語を使うようにはしています。
ただ、関係が深くなっていった際には、別に「友達」として接します。
僕なんか、むしろめちゃくちゃ守っていたほうです笑。
ちなみに今でも、初対面の学生さんには敬語(丁寧語)を使うことがあるくらいですから、そこら辺の人よりはかなり腰は低いと思います。
むしろそういう意見を言う人こそ、年齢で上か下かを判断しては、見下したりごまを擦ったりしている傾向にあります。
だから僕は、学校の教員だった時にも、相手が年上だろうと「間違っていることは間違っている」と噛みついていました笑。
組織の中にいる以上、守らなければいけない関係や立場もありましたが、結構声を上げていたほうだと思っています。
大切なルール、人としての大事な部分を守りながらも、バランスを取れること。
それは「忖度のない人」にも繋がってくるのだと思います。
自分の立場ばかりを優先していた人は、
- 常にどう見られているかを考え
- 当たり障りのない意見だけを出し
- 「事なかれ主義」を貫いていただけ
でした。
若い時に見た時の彼らは、大人としてはみっともなくて、
と思ってしまいましたね。
- 生徒の声
- 民衆の声
- 社員の声
を拾える組織であれば、良い方向に変わってゆくのだと思います。
もちろん、時には「やむを得ない選択」もあるでしょうけれどね。
それでも、いつでもバランス感覚を大事にできる、そんな人間でありたいですよね。
- ルールを守りながらも
- 変わるべき部分にメスを入れること
これが、今の日本の組織に必要なことなのかもしれませんね。
おわりに
学生から意見を吸い上げた時に、幾度となく職員会議で戦ったことを覚えています笑。

と追求しても、答えられる先生なんて一人もいませんでした。
所詮、そんなものなのです。
こう聞きますと、
と思われるかもしれませんが笑、僕は昔からそうです。
長いものに巻かれることは嫌いですし、権力にあぐらをかいているやつに制裁を加えることは大好きでした。(やっぱりやべーやつ笑)
それこそがいい意味での「正しさ」だと思いますし、何も暴論や自分の利益のために声を上げていたわけではありません。
日本には、まだまだ意味のわからないルールがたくさんあります。
なんでもかんでも、とまではいきませんが、各組織において声を上げることは大事なことです。
柔軟に、そして本当に大事なルールを守りながら、生きていきましょう。
それではまた!
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