こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
以前、「現代の教育はスキルではない」という記事を書きました。
先日、再び同僚と教育について話しました。
やはり先生を見ていますと、
- 他責思考が強い。
- 変わろうとしない。
そんな先生が多いという実態は、なかなか変えられそうにありません。
だからこそ、僕は教員をやめるのですけれどね笑。
今日は「教育者を育てる難しさ」について書いていきます。
教育に正解はない
そう思ったのは、現場で働いていたからこそでした。
当然のことながら「教育」とは考えるほど、そこに「正解」があるようなものではありません。
若かりし頃の僕は「自分の教育が全て」だと思っており、上の教員たちがうまくできないことに対して、よく噛み付いていたものでした笑。
ある意味フレッシュであり、
とは思いますが、どんなに僕が正論を振りかざそうとも、残念ながら教育に「答え」はありませんので、僕の意見も正解とは限りません。
だからこそ教育現場は「カオスである」とも言えます。
それだけ「多くの思想や考え方」が同時に混在しているからです。
以前の僕は、
と思っていたのですが、今の僕は、
と思うようになりました。
それは決してネガティブな思考ではありません。
「教育に正解はない」という、前提に立ってから話をするかどうかという違いだからです。
変えようとすればするほど、自分がイライラしてしまうだけですし、一方で変わらない現場にい続けることは、僕にとってもストレスです。
こうして僕は、
と結論づけました。
正解のない教育現場で方向性の違う人たちと「教育をすること」は、僕にとってストレスしか生み出しませんでした。
それならいっそのこと、自分らしい教育ができる場を作ったらいい。
これは、教育現場にいたことでわかったことだったのでした。
教育者を育てることが難しい理由
上に書いた通り、正解のない教育界で最も簡単なことは、「それっぽくやっておくこと」です。
自分に傷がつかないように、被弾しないように、挑戦もせずリスクも犯さないまま、平々凡々に教育を続けていくことです。
表面上だけうまく調整しておいて、なんとなく「やっている感」を出せばいいのです。
ただ僕は、教育こそどんどん改革されていくべきだと思っています。
それなのに、全く変わろうとしない日本の教育。
ガラパゴス諸島もびっくりです笑。
「正解がない抽象的な部分」にテコ入れをしないと決めておくこと。
これほど簡単に、コトを済ませられることはありません。
あとは適当に、
- それっぽい研修
- お偉いさんの監査
- 授業のマニュアル化
をやっておけば、
と(一応)思わせることができます。
しかし中身は全くなくて、イベントが形骸化しているだけにすぎません。
「形骸化している」という言葉は、同僚から聞いたものでした。
僕も「表面を取り繕っているだけの現場」を幾度となく見てきました。
- ミスのないように
- 怒られないように
- クレームが入らないように
そんなことばかりでした。
じゃあ僕らは一体、なんのために働いているのか。
そんな「表面を均(なら)すため」だけに、教育者になったわけではありません。
もっと生徒と心でぶつかり合い、
そう思わせるような人材になろうと頑張ることが大切ですし、そうした人材を未来のために作っていかなければならないのです。
英語の教授法を磨くことや、権威性を確立することも確かに大切なことです。
しかしそれらは最低限あればいい。
教育者を教育者たらしめるのは、そんな上っ面のスキルではありません。
- 愛
- 人徳
- 誠実さ
- 献身さ
これらのような、「心のスキル」が必要だと思っています。
その「抽象的な部分」を若い世代に教えていくことができなければ、日本の教育なんていつまで経っても変わらないでしょうし、ずっと表面的なもののまま続いていくでしょう。
「教育者のための教育プログラム」では、そうした抽象的な「マインドを育てるプログラム」に取り組んでいかなければいけません。
もちろん先生たちは、一人一人のキャラクターや生徒との接し方が違いますので、大変難しいことだということもわかっています。
だからこそ、日本の教育は難しい部分から逃げ続けてきたのです。
簡単なことばかりをそれっぽくやって、「素晴らしい教育者」を輩出しているように見せるのはやめにしましょう。
もっとリスクをとって、時間をかけて人を育てていかないと、いつか日本の教育に終止符が打たれることになるでしょう。
若手にはもっと挑戦させていい
若い教員たちが挑戦できるようにするために、ベテラン教員や管理職ができることは何か。
それは、若手に何でもやらせられるように、
と、上の立場の人間が後ろ盾になってあげることだと思っています。
- 保身
- リスク回避
これらが目立つ現場で、ミスを許そうとしない空気が漂っていますと、
と、若手教員たちも思い込んでしまいます。
「全ての管理職が…」と一般化したくはありませんが、組織においてリスクをとらせてくれる人はなかなかいないのが事実です。
そんな職場では当然のことながら、
- イノベーションは起きず
- 魅力はどんどん削られていく
という悪循環が起きます。
すると若手の教員たちは、生徒と本気でぶつかろうとしないどころか授業も単調になり、
と錯覚し始めます。
事務的な作業は「マックジョブ」と呼ばれるように、できる限りマニュアル化するに越したことはありません。
学校で言えば「入試の業務」などはミスが許されませんので、そうした場面でリスクをとる必要はないです。
ただ、授業や生徒との関わり合いの中では、ある程度「振れ幅」はあってもいい。
そこでリスクをとらせ、マニュアルから逸脱させ、たくさんチャレンジをする場を設けてあげること。
それがない限り、失敗を経験することもできませんし、多種多様な考え方を身につける経験も得られません。
先輩教員たちから、
という機会がどれほど貴重な財産になるか。
上に立つ人たちが後輩や若手を育てたいのであれば、彼らが、
- 積極的に
- アグレッシブに
なれる機会を生み出してあげることです。
失敗してしまった時に、
- ほら見たことか
- あれだけやるなと言ったのに
と叱責するのはナンセンスです。
状況にもよりますが、できれば若手のチャレンジを認めてあげてほしい。
僕はそう思っていますし、そういう教育現場のほうが日本教育の課題である「心の部分の教育」をすることにつながると信じています。
おわりに
教育現場に正解はありません。
だからこそ、
- 若手にとって学ぶことも
- 先輩教員たちが教えることも
難しいことばかりで、時間がかかるものです。
しかしそこに立ち向かっていかない限り、日本の教育はずっと形骸的なものとなったままでしょう。
僕はそんな現場から離れてしまいますが、自分なりの教育を築きながら「教育者教育」にも力を入れていきたいと思っています。
それではまた!
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